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今月のワンポイントアドバイス


 皆さんは「水からの伝言」って言葉を聞いたことがあるでしょうか? これはニセ科学といわれ始めています。
 ニセ科学が問題なのは、それを利用した数々の商売が世の中にあるからです。その中には、かなり高額な商品を売りつけるものまで出てきており、信じがたいが科学的に証明されているからと信じてしまうのではなく、一歩下がって考えていただけるような賢い消費者になるよう心懸けるていただきたいからです。
 今月は「水からの伝言」を中心に、このように世にはびこる科学的なようでそうでないものを解説してみます。
水の結晶

はびこるニセ科学〜水は何にも知らないよ〜
ニセ科学とは何か?
〜見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの〜
水は何にも知らないよ〜今はやりのニセ科学〜
これってホント?? 〜


ニセ科学とは何か?〜見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの〜

 昨今、『水からの伝言』など様々なニセ科学が悪用され社会問題になっています。本項では、具体的なニセ科学に言及する前に、科学とニセ科学の違いやニセ科学の特徴と欠陥等についてなるべく詳しく解説しました。
「水からの伝言」って何?〜ニセ科学〜

 「水に“ありがとう”などの“よい言葉”を書いた紙を見せたり聞かせたりして凍らせるときれいな結晶が出来、一方で“ばかやろう”などの“悪い言葉”を書いた紙を見せたり聞かせたりして凍らせると汚い結晶が出来るとか、或は 全く結晶が出来ない」といった“お話し”をどこかで聞いたことがある人もいるでしょう。

 実は、こんな奇妙な言説がここ数年世間に広がっています。 キッカケは、某研究所著わした発表によります。これらの書籍では、「実験」と称して、「水に“ありがとう”と書いた紙を見せたり“ありがとう”の念を送って美しい水の結晶が出来た」などと言って、その結果としてきれいな水の結晶の写真を掲載しています。
これが、テレビで芸能人が紹介したり、或はある教師の間で広まっている教材や授業を開発する運動の中で取り上げられ、「水も“ありがとう”という言葉に反応してきれいに結晶します。だから、皆さんも美しい言葉遣いをしましょう!」などといった形で道徳の授業に使われる実態があるのです。

 ちなみに、ここで言われている「水の結晶」は、正確に云えば空気中の水分が結晶したもので、要するに「雪の結晶」と同じものですが、何れにせよ、“水がどのような条件で、どのような結晶をつくるか”は研究によって既に解明されています。つまり、物理的条件さえ揃えば、水がどのように結晶するかはコントロール出来るので、そこには、「ありがとうと書いた紙を見せる」とか「ありがとうという念を送る」といった曖昧な条件が入る余地などはありません。このように、どう考えても科学的に誤った言説が教育現場を含む世間に現在蔓延ってしまっているのです。

 この「水からの伝言」のような“一見科学的な装いをした誤った主張”は、これをまとめて「ニセ科学」、或は「疑似科学」と総称されています。
ニセ科学の定義〜見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの〜

 このような素人には一見科学的に見えて実は非科学的な言説は、従来は「疑似科学(ぎじかがく)」と呼ばれて来ました。

 ここで「疑似科学」とは英語のpseudoscienceの訳語で、「虚偽の」を意味するギリシア語の語根pseudo(プセウド)と「学問」を表わすラテン語のscientia(スキエンティア)の複合語です。その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるかのように見せかけたりしていながら、科学の要件として広く認められている条件(=科学的方法)を充分に満たしていないものを総称して「疑似科学」と言われます。「科学ではない」ということをハッキリさせるために、「ニセ科学」或は「似非科学(えせかがく)」という語を用いる人もいます。これらは当然本当の科学的には実証されていないもので、これらが科学であるかのように社会に誤解されるならばそのことが問題であるとして、昨今、心ある科学者などから社会問題視されています。


 なお、上で述べたように、疑似科学的言説は科学的方法を取っていないために当然ながら科学雑誌等への論文投稿が認められず、そのため論文の査読も経ていないものが殆どです。そして、一般の科学者が疑似科学の言説に対してそのような態度を取るため、科学による迫害とか悲運の学説だとして一部の人々からは熱狂的に指示されている言説もあります。

 また、人によっては催眠療法や精神分析学、或はカイロプラクティックなども「疑似科学」に分類する人もいるため、その線引きは厳密には難しい部分もあります。そのためここでは、“見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの”、つまり、“普通程度の科学的知識を持つ一般市民には科学と区別がつかないが、専門家から見れば荒唐無稽なもの”というぐらいの意味で、「疑似科学」の語に換えて、より(否定的な)意味のハッキリした「ニセ科学」の語を統一的に用いることにします。


※注:  なお、類似の概念で、“科学的方法を採用するが、未だ厳密には科学に至らないもの”、或は“至ってはいるのだが、社会全般に科学であると認められていないもの”を「プロトサイエンス」(未科学、異端の科学)と言います。また、おまじないなどの迷信やオカルトも類似の概念ですが、それが科学であると誤解されるような要因を持ち合わせない場合は「ニセ科学」とは言われません。

ニセ科学として証される中には、将来その正しさが証明されるものもあるかも知れません。
天動説と地動説がそうであったように・・。

科学とは何か?〜ニセ科学について考えるために〜

 ニセ科学の特徴について詳しく解説してゆくに先立って、本節では、「反証可能性」と「科学的方法」の2つの観点から科学の特徴を解説しておきます。
反証不可能性

 反証不可能性とは、科学哲学者のカール・ポパーが科学の基本条件として挙げた「反証可能性 (falsifiability)」の反意語です。


カール・ポパー ここで「反証可能性」とは、検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味しています。つまり、「ある仮説が反証可能性を持つ」と言った場合、「その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性が(原理的に)存在している」ということを意味しています。
 たとえばアインシュタインの相対性理論では「如何なる質量も真空中の光速を超えて運動することはない」とされていますが、(出来る・出来ないは別にして)ある物体を超光速まで加速して見せるか、或は超高速まで加速した物体の存在を示す実験結果が得られれば、その時に相対性理論は否定されることになります。これが「反証可能性」で、この反証可能性を持っていることによって相対性理論は科学理論であると言えるわけです。
 それに対して、たとえば念力など超能力の実験で、「超能力を否定する想いを持った実験者が存在すると、それが逆念(逆の念力)となって働くために超能力の存在に否定的な結果が出てしまう」などといった主張がなされる場合がよくあります。降霊会などの実験でも、「霊の存在に対して否定的な人間がいると、霊の側で嫌がって降りて来ない」などと主張されることがあるそうですが、これではいくら否定的な実験結果が出てもその主張者たちを納得させることは出来なくなります。このような“如何なる実験や観測によっても反証されない”構造を持つ仮説を「反証不可能な仮説」と呼ぶのです。

 そして、いま多くのニセ科学がこの「反証不可能性」の罠に陥っていると言えます。
 よく知られているように、科学の研究は「仮説−実証」の両輪で、いわゆる「科学的方法」に則って厳密に進められます。通常の科学理論では、もしもその主張(=仮説)が間違っていた場合は、当然ながらそのことを示す証拠が見つかるはずで、そのような「反証」事実が出て来れば元の理論を修正するのが科学の営為です。このように、「反証出来ること」が如何に科学にとって大事であるかを上のポパーの「反証可能性」の言葉は示していると言ってよいでしょう。それに対してニセ科学は、自らの主張を“反証が出来ない”、もしくは“反証出来ない構造にしている”主張であるということになります。
科学的方法

 ここで科学的方法とは、科学者がその研究対象である世界を調査し、その世界に関する知識を生み出す方法を言い、制御された実験の使用及び実験の再検証の可能性の要求(再現性)により、知識に至る他の方法とは区別されます。(※なお、ここで言う「科学的方法」とは、厳密に言えば自然科学的ないしは実験化学的な方法と言うことが出来ます。)


■科学的方法の一連のステップ
観察(Observation):
 現象を観察する、或は読み取ること。観測・調査・測定。
仮説 (Hypothesis):
 観察事象について思索を巡らし、仮説を考案すること。
※仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実の束を説明できるものを言う。 
予測 (Prediction):
 予測が正しく生じるか否かを検証するために予測の検証実験を実施すること。
確認(confirmation):
 仮説の論理的結果を使い、新しい現象や新たな実験の測定結果を予測すること。
評価(Evaluation):
 推測が確実な説明であると確信が示せるまで観測結果に対する可能性がある別の説明を探すこと。
公表(Official announcement):
 結果を他者に伝えること。
※良質の科学雑誌では、論文の査読を第3者(専門分野での独立した科学者)が論文を出版する前に行なうが、このプロセスはピア・レビューという手法(2000年イギリスで行政の業績評価手法として採用)として知られる。 
追試(supplementary examination):
 他の科学者が公開された論文を調査し、結果が再現することを確認すること。追試出来ない時は元の論文は認められない。

ニセ科学者とニセ科学の欠陥

 本節では、ニセ科学者の特徴とニセ科学の持つ欠陥について解説しました。
ニセ科学者の傾向

 ニセ科学者には確信犯もいるでしょうが、善良な研究者も多くいると思います。ありもしない「発見」をしてしまってニセ科学の道に踏み込んでしまった人も多くいるものと考えられます。
 そのようなニセ科学者には、次のような傾向を持つ者が多いと指摘されています。


■ニセ科学者の傾向
自分を天才だと考えている。
周囲の人間を無知な大馬鹿者と考えている。
自分は不当にも迫害され差別されていると考えている。
最も偉大な科学者や最も確立されている理論に攻撃の的を絞りたいという強迫観念がある。
複雑な専門用語を使って書く傾向がよく見られ、多くの場合、自分が勝手に創った用語や表現を駆使している。

ニセ科学の持つ欠陥

 下の方でも見るようにこの世には様々なニセ科学が存在していますが、それらの中に共通して現われる問題として以下の特徴が挙げられます。

 上でも触れましたが、ニセ科学者にも良心的な人間もたくさんいることでしょう。また、ニセ科学は間違っているから悪いのではありません。問題はそういうことではないのです。ニセ科学が問題なのは、その論理にここでで挙げるような様々な欠陥があることです。人間性云々も大切ですが、何れにせよ正しく科学するためには、論理的に正しく、真面目で地道な研究が必要なので、それを放棄して安易な道に走ることがニセ科学へ陥る第一歩だと言えます。


■偽物科学の常套手段
データを捏造する、或は隠蔽する:
例)16世紀の地図に南極大陸が描かれている(※実は南米の海岸線が実際より長く描かれているだけ)
自分に都合の悪いデータは無視する:
例)ルルドの泉で病気が治った(※治らなかった例の方が圧倒的に多い。そちらは無視)
相関関係と因果関係を混同する:
例)禿げの人は癌で死ぬ確率が高い(※禿げは高齢な人に多から、癌に罹る率が高いのは当たり前)
偏見と予断で事実を歪める:
例)ナスカの地上絵は地上からは描けない(※ロープを使うと簡単に描ける)
反証不可能な曖昧な議論を行なう:
例)ノストラダムスの予言(※解釈の仕方ではどうにでも言える)
偶然の産物を偶然でないかの如く提出する:
例)聖書の文字を並べ替えると予言が現われる(※実は語呂合わせ・コジツケでしかなかったりする)
科学者は権威主義であると批判する:
例)ヴェリコフキー(『衝突する宇宙』の著者である精神分析家)の例など

ニセ科学の特徴

 上ではニセ科学の持つ欠陥について特に解説しましたが、それと多少関連しますが、本節ではニセ科学の持つ特徴について、いくつか項目を分けて詳しく解説してゆきます。
ニセ科学は白黒つける

 下の項目で具体的に様々なニセ科学の実例を挙げて説明いたしますが、そこでも分かる通りニセ科学には様々なパターンがあります。「ニセ科学とはこういうものだ!」とひと言でまとめられればよいのですが、残念ながら中々そうはゆきません。それでも、いくつかの特徴を見つけることは出来ます。(※必ずしも全てのニセ科学がここで挙げる全ての特徴を兼ね備えるとは限らないことには注意して下さい。) 


 恐らく最も重要なのは、ニセ科学が2分法を使う、或は「きっちりと白黒をつける」こと(単純化)が挙げられるでしょう。たとえば「マイナス・イオンは身体によく、プラス・イオンは身体に悪い」などというのが代表的な例です。或は「水の結晶がきれいならよく、結晶がきちんと出来なければダメ」というのも同類です。(※ちなみに血液型性格判断は2分法ではなく4分法ですが、「きっちり分ける」という意味で相通ずるものがあります。) 
 もちろん現実には世の中のものは「善い・悪い」の2つにきっちりと分けられたりはしません。どのようなものにも善い面と悪い面とがあるもので、たとえば少量なら薬になるものでも大量なら毒になるのです。そもそも身体に影響を及ぼすからこそ薬として使えるわけで、影響を及ぼし過ぎたら何か問題が起こるのが当然でしょう。従って、「マイナスはよくてプラスは悪い」などと断言されたら、その時点で何かおかしいと感じるべきなのです。

 大体において、科学的に誠実に語ろうとすればするほど、実は「白黒きっちり」とはゆかなくなるので、どうしても様々な留保条件をつけざるを得なくなります。「身体によいか」と尋ねられても、程度問題でしか答えられないことが往々にしてあります。科学としてはむしろそれが当然の姿なのですが、残念ながらその歯切れの悪さのお陰で、「マイナスはよくてプラスは悪い」という断言のインパクトの前では科学は分が悪いようです
ニセ科学は脅す

 ニセ科学の宝庫である健康関連商品では「脅迫的」な説明をよく見かけます。水道水を飲んでいては健康を害するとか癌になるとか、或は電磁波を浴びるとどうとかこうとかといった類です。

 もちろん場合によっては必ずしも嘘ではない面もありますが、だからといって、そういった主張が全面的に正しいわけでもありません。しかもそれがその商品の価値と本当に関係があるのかというと、実は殆ど関係ない場合が多いのです。
 たとえば水道水が本当に身体に悪いと言うのなら、水道の普及と共に日本人は短命になってもよさそうなものですが、実際には日本は今や世界一の長寿国家です。「水道水のような基本的なインフラが健康に悪い」という主張には、だから明らかに何かしらおかしな部分があるのです(※もちろん「その分を医療の進歩がカバーしているのだ」という主張も出来るかも知れませんが、それならそれできちんとした疫学的調査で裏付けをしなければなりません)。それにも拘らず、「水道水は身体に悪いからミネラルウォーターしか飲まない」と公言する人をよく見かけます。確かに殺菌用に塩素が加えられているので、トリハロメタンなどが発生するのはその通りなのでしょうが、しかし、問題がそれだけなら安い浄水器などで簡単に対処することが出来ます。ところが、水道水は危険だという脅迫的な宣伝を真に受けて波動やら遠赤外線やらといった怪しげな効果を謳う高価な浄水器を買ったり、或は活性水素の豊富な水(※学会では全く認められていません)なるものに大枚をはたいたりという人が少なからずいます。まさに悪徳商法の思う壺だと言ってよいでしょう。
 どうやら脅迫的な宣伝をしている商品は、それだけでも疑ってかかってよさそうです
ニセ科学は願いを叶える

 さらにここで、ニセ科学は「願いを叶えてくれる」ということも指摘しておく必要があるでしょう。
 
 たとえば生徒の言葉遣いに悩む先生方には、下で詳しく触れる『水からの伝言』があります。子どもがゲームばかりして困っているお母さんには『ゲーム脳の恐怖』があります(※ゲーム脳は少年の凶悪犯罪が増加している理由まで説明してくれますが、しかし、実は少年凶悪犯罪が増加している証拠はないのです)。世界一の長寿国家に住んでいてもなお世の中には健康に悪いものばかりだと不安を憶える向きには、健康によいマイナス・イオンや活性水素その他名前すら聞いたことのない雑多なものがよりどりみどりです。そして、世界平和を願う(でも余り行動したくない)人には『百匹目のサル』がついています。これによれば、みんなが平和を願いさえすればよいのです。(※ちなみに下でも触れますが、この『百匹目のサル』もまたどう考えてもオカルトなのですが、ライアル・ワトスンという科学者が広めたために科学的事実と思われています。しかし、実は捏造であったことが今では分かっています。) 
 どうやら、余りにも都合よく願いを叶えてくれるものにも注意が必要なようです
ニセ科学は何故受け入れられるのか?


 それでは、ニセ科学は何故一般に受け入れられやすいのでしょうか? 
 上記で考察したニセ科学の特徴と一部重複する部分もありますが、以下でその理由として考えれるものをいくつか挙げておきます。
■ニセ科学への興味と確信
ニセ科学への興味と確信の表


科学的に見える:
 先ず第一に、ニセ科学は“科学に見える”ということ、それどころか、実はほんものの科学よりもニセ科学の方がより科学的に見えてしまい、だからこそ受け入れられているのではないかと考えられます。つまり、ニセ科学の信奉者は決して科学が嫌いなわけではなく、本物の科学よりもニセ科学のほうを“より科学的”と感じている節があります。そして、それには一般の人々の持つ科学のイメージが与っているようです。すなわち、一般の人々は、科学に対して大概「様々な問題に対して曖昧さなく白黒はっきりつけるもの」というイメージを抱いていますが、しかし、厳密であろうとすればするほど科学は曖昧な答えしか出せなくなります。そのため、本来の科学の方を却って“科学らしく感じられない”といった事態を生み出してしまうのではないでしょうか。

分かりやすさ:
 2分法などの思い切った割り切り方(単純化)。そして、上と関連しますが、この単純化が却って科学的だという印象を一般の人々に与えているようです。すなわち、ほんものの科学が断定的な答えを中々出せないのに対して、ニセ科学は「プラスは悪くマイナスはよい」「A型は几帳面だ」「+21は腎臓に最高だ」など、とにかく小気味よく物事に白黒をつけてくれます。そして、この思いっきりの良さが人々をニセ科学にひきつけている要素のひとつなのでしょう。

科学を装っていながら敷居が低い:
 また、本物の科学をきちんと理解しようとすればある程度の努力は必要ですが、ニセ科学は縦書きの本を一冊眺めるだけで何となく理解できてしまいます。その敷居の低さも重要な点でしょう。

論文は書かなくても本は書く:
 科学的発見はきちんと論文にして他の研究者の評価を仰がなくてはならないのですが、ニセ科学は往々にして論文にならず、まず一般向けの書籍として知識が流通します。「書籍の形にまとまっていれば信じたくなる」というのも人情ではあるのですが、しかし、ニセ科学の大半は論文の提出や査読も認められないほどデタラメな学説なので、そのために論文ではなく一般向けの書籍を著わしているのだという側面があることにも注意をしなければなりません。

夢を見れる:願望充足:
 上でもニセ科学の特徴として触れましたが、ニセ科学は人々が“信じたい”と思うことを提示してくれます(願望充足)。そして、一部の人たちにとっては、「信じたい」と「信じる」がほぼイコールなのではないでしょうか。ちなみに、特にいわゆる船井系(船井幸雄氏が支持するもの。波動・EMなど)を受け入れる人たちには(船井氏自身も含め)そのような傾向が強いように見えます。これはある意味で一種のニューエイジ思想なのですが、そこから下記でも取り上げる市民運動とニセ科学の結びつきも生じます。何れにせよ私たちには、“自分たちの思想や運動にとって都合のよい学説は信じて、そうでない学説は信じない”という傾向があるのです。

実験で検証するということ〜科学における実験の意味〜

 ニセ科学に対して批判的な見方をしている方も含め、「水の結晶の話は誤り」などニセ科学批判の文章を見ると、「この世の中に絶対ということはないはずなのに、『水からの伝言』が本当でないと何故言い切れるのか? 『水からの伝言』などのニセ科学が間違いだと言うためには、実験で確かめなくてはいけないのではないか?」といった疑問を持たれる方も当然ながらいらっしゃることでしょう。これは、「否定するなら実験によって反証するのが筋で、怪しいとは思っても、反証実験が出るまでは一応態度を保留しておくのが科学的態度ではないのだろうか?」という疑問です。一見もっともらしい考え方ですが、下で取り上げる「相対主義の誤謬」と同様、そこには大きな問題があります。

 この問題について、ここでなるべく詳しく論じておきたいと思います。
科学的方法による検証〜実際に試していないことにも科学的知識を適用出来る〜

 科学的方法の重要な点のひとつとして、実際に試していないことにも科学的知識を適用出来るということが挙げられます。


 確かに科学の基本は「実験」で、今の科学はこれまでの数多くの実験や観察で得られた事実を下にして作られています。だからといって、全ての“考え”をいつでも実験して確かめなくてはいけないというわけではありません。科学の知識がある程度まで増えてくると、新しく実験しないでも、何が起きるかがほぼ確実に分かるようになりますが、それは過去の実験の結果についての知識と総合的な理論を下に考えることが出来るからです。たとえば「明日の朝、太陽は昇らない」と言われても、「これまで太陽が昇ってきた」という観察事実と「太陽が何故昇るのか」という天体の運動についての知識を組み合わせれば、「いや、明日も太陽は昇る」と言い返すことが出来ます。それと同様、「水は0度で凍る」というのは、単に「実験に使った水が0度で凍った」という事実を言うだけでなく、「まだ凍らせたことのない目の前のコップの水もやはり0度で凍るはずだ」という「予言的」内容を含んでいるのです。

 もちろん科学も人間の知識のひとつですから、何かが絶対に分かるということはありません。しかし、科学の中には長い時間をかけてとてもよく分かっている部分もあり、そういった部分に関しては「ほぼ確実に正しい」と言い切ることが可能なのです。たとえば地球がほぼ丸い形をしていることは昔は大胆な仮説でしたが、今ではたくさんの証拠に支えられてほぼ確実に正しいと言えます。逆にほぼ確実に正しいことが分かっている科学の事実と比べることで「ほぼ確実に正しくない」と言い切ることが出来るような考えもあります。たとえば「大地は平らでカメの背中に乗っている」といった考えです。そして、たとえば「水からの伝言」についても、それと同じように「ほぼ確実に正しくない」と言い切れるのです。
実験で検証するということ〜“experiment”と“demonstration”〜

 それでも、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか? ちゃんとした実験もしないで否定するのは科学的態度としては問題ではないのか?」と思われる方もいらっしゃることでしょう。
 そこで参考までに、科学で言うところの「実験」とは本来どのようなものか、ここで簡単に解説しておきたいと思います。


 実験には“experiment”と“demonstration”の二種類があるのです。そして、「やってみる」のはdemonstrationで、実はdemonstrationで何かを証明することは出来ないのです。学校の理科系科目でやる「実験」はその意味で言うとdemonstrationです。先生がやって見せるものに限らず、生徒が自分で行なう実験も一般にはdemonstrationの域を出ません。
 一方で、何かを証明するためのexperimentには手間も暇もお金かかる上に、解釈にも細心の注意を払わなくてはならず、片手まで「やってみる」こととは全く違うものなのです。下でも詳しく触れますが、そもそも『水からの伝言』における実験自体が科学としてはexperimentとはとても呼べない代物で、せいぜいがdemonstrationの域を出ないものだったのです。(※ちなみに「あるある大辞典」の「捏造」が発覚した際に、多くの人は「捏造だからダメだ」と考えたと思いますが、しかし、実は捏造でなかったとしても、「あるある」の実験には科学的な意味はありませんでした。せいぜいがdemonstrationです。「あるある」のスタッフが勝手に考えた筋書きを「証明」出来るようなものではなかったのです。) 


なお、ここでひと言っておきますが、これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になる時には、新説を出している科学者の側に説得力のある証拠を出す責任があります。追試をするのは他の学者ですが、その前に新設の提唱者がまずは説得力のある証拠を出すのが先なのです。他の科学者に対してそのような説得力のある証拠を示せないような新設に対して、他の科学者がわざわざ手間暇をかけてその新説について追試をする義務はないのです。
参考:極端な相対主義の弊害

 ここでニセ科学の問題から少し外れますが、極端な相対主義と呼ばれる考え方について述べてておきたいと思います。


 相対主義というのは、「主義主張や思想哲学には絶対的なものはなく、その正しさは時代や地域などによって異なる相対的なものだ」とする考え方の総称です。実際、たとえば「麺類を食べる時に音を立ててよいか」といった問いには絶対的な答えなどはなく、答えは明らかに文化的=社会的な背景に依存します。しかし、「科学と非科学の境界が確実でない」という事実から一気に飛躍して、科学も神話も、はたまたニセ科学も、それぞれの文化的=社会的背景の下では「真実」であると主張するのは、これはゆきすぎた相対主義であり、明らかな誤りだと言わざるを得ません。
 そう言えば、かつて犯罪的な宗教教団の問題がマスコミを賑わしたことがありましたが、信教の自由を理由にそのような宗教団体を批判することに対して少なくとも慎重な態度を示した人が識者を中心に当初は多く見られました。結果はどうであったかは既に明らかですが、これもゆきすぎた相対主義の事例のひとつと言ってよいでしょう。そのこととも関連しますが、相対主義的な主張は口当たりもよく、表面的には個性を重んじる進歩的な臭いがするためか、社会に広く受け入れられやすいといった側面があるようですが、そのことも与って、一部では相対主義的な主張が反科学やニセ科学を助長する「理論的基盤」となっている感もあります。

 今回は詳しく取り上げられませんでしたが、確かに科学とニセ科学の間にハッキリした境界を引くことは出来ないのも事実です。しかし、多くのニセ科学はグレーゾーンではなく、「誰が見てもニセ科学」の領域にあるものが殆どです。何れにせよ、グレーゾーンがあるからといって科学とニセ科学は区別出来ないと考えて相対主義の罠に嵌るのは問題だと言ってよいでしょう。とにかくニセ科学に嵌らないためにも、私たちはおかしな相対主義に囚われず、正しいものの見方を身につける必要があります。

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水は何にも知らないよ〜今、はやりのニセ科学〜

 本項では、現在流行っているニセ科学の代表例として特に「水からの伝言」を取り上げ、その疑問点を詳しく解説してゆくことにします。

 一見道徳的に見えるこの主張の一体のどこが問題なのでしょうか? これは、実は道徳的な主張を唱えるニセ科学が以下に多くの人を惑わせるかの実例でもあるのです。
水は答えを知っている?〜再現性のない「実験」〜

 「水からの伝言」とは、既に冒頭でも触れたように、「“ありがとう”などの“よい言葉”を見せた(或は聴かせた水の結晶)水は凍らせた時に美しい結晶をつくるが、“ばかやろう”などの“悪い言葉”を見せた(聴かせた)水は凍らせても美しい結晶をつくれない」という“お話”のことです。ただし、冷凍室や顕微鏡を使った「実験」を紹介しているので、一見すると理科や科学のように思えてしまうのです。しかし、これまでの科学の様々な知識を下にして考えれば、当然ながら水が言葉の影響を受けて結晶の形を変えるということはあり得ません。そもそも結晶をつくる実験をするのは、その言葉を見せながら(或は音楽を聴かせながら)水の結晶を作るのではなく、言葉を見せた(聴かせた)後ですから、その言葉の影響が残るというのは常識で考えてもおかしいことが分かります。なお、「こういったことは今の科学ではまだ分からないことだ」と言われることがよくありますが、そうではありません。水からの伝言」は“今の科学で間違っていると断言できるもの”なのです。

ニセ科学は「波動」

「水からの伝言」は波動によって説明されているからです。しかし、「水からの伝言」と波動の間に論理的なつながりは何もありません。「水からの伝言」を解釈(=説明)するに当たって、それ以前からあった「波動」の考え方を持ち出してきたに過ぎないのですが、この「波動」は実はニセ科学です。
 「水からの伝言」とは若干離れる部分もありますが、ここで「波動」について詳しく解説しておきます。
波動って何?

◆ワンポイント: ニセ科学者たちの言う「波動」とは?
 ニセ科学の世界で言う「波動」は物理学的な概念ではなく、量子力学で言うところの波動とは全く別のものです。「あらゆる物質は固有の「波動」を持つ」と考えます。彼らによれば、人間もそれぞれ固有の波動を持つし、個々の臓器も固有の波動を持っています。そして、植物も食品も固有の波動を持っているのです。波動なので、ちょうど周波数の一致する波動同士が出会えば共鳴が起きることになりますが、この共鳴を利用して健康の具合を調べることも出来るし、もっと積極的に波動を調節して病気を直すことも出来るのです。また、波動を別のものに転写することも可能で、たとえば健康によい物質の波動を水に転写すれば、その水を飲むことでその物質の効果を取り入れられることになります。
 もちろん、これらは全て何の根拠ももない単なるニセ科学です。ちなみに、最後の「転写」は「水は記憶する」という意味で、別の代表的ニセ科学である「ホメオパシー」ともつながっています。

秀逸なアイディア 波動測定器〜波動とは“波動測定器で測れるもの”〜

 「波動」と聞くと如何にも物理学の専門用語のように思えますが、上でも述べたように、実はここで言う「波動」は物理学的な概念ではありません。では、「波動」とは何かと言えば、「波動測定器で測られるもの」と言う表現が最も適切でしょう。

波動測定器 実は波動測定器の仕組みはほぼ解明されていて、どうやら測定者自身の電気抵抗を測っているらしいということが分かっています。要するに嘘発見器です。実際、波動測定器は熟練した測定者でないと正しい数値が出ないと言われており、測定対象の性質を客観的に表わすものでないことは明らかなのですが、しかし、この「波動測定器」というアイデアの秀逸さは特筆に値するものがあります。
 たとえば普通の検査機関に食品の成分分析を依頼したとして、結果は、1g中に何が何mg、何が何mgというデータが延々と並んだものになるはずです。しかしそれでは分かりにくいので、「結局身体に良いのか悪いのか」と質問したとしても、明らかに毒性の物質が含まれるのでもない限りは曖昧な答しか返って来ないでしょう。
 ところが、波動測定器は違います。波動測定器は、どんなものにもひとつの数値で答えるのです。+21なら最高、-21なら最低、そして+10程度なら「そこそこにいいのだな」といった具合です。従って、「波動測定器の数値が+21だったので、この食品は○○によいことが示されました」などと言えるわけです。波動測定器は、このように数値があることによって、どうやら見る者に科学的で客観的だという印象を与えるらしいのです。もちろん複雑な問題に対して数値を一個だけ出力する測定器など本当は奇怪な代物としか言えないのですが、波動という言葉の「科学っぽさ」もさることながら、数値で表わすというアイデアによって“科学らしさ”がより強調され、一般の人にも受け入れやすくなるのでしょう。

 ちなみに波動に関しては、マイナス・イオンと違い、中小メーカーが大手との区別化のために導入して流行っているという印象を受けますが、大きな研究部門を持たない中小メーカーにとっては、波動測定器という一個の装置が出す数値だけを見ればよいという安直さが魅力なのでしょう。
教育現場に浸透したニセ科学〜「水からの伝言」が授業で使われたって

 さすがに教科書に載ったわけではありませんが、教材や授業を開発する運動の中で「水からの伝言」これが取り上げられ、その結果、小学校の道徳や総合学習の授業で教材として使われたといいます。また、全校集会での校長先生やPTA会長のお話の中で取り上げられたことも多いようです。
 授業の進め方は先生にもよるでしょうが、大体は次の通りです。生徒にきれいな結晶と汚い結晶の写真を見せた上で、それが「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水だと説明し、水が言葉の影響を受けるのだと教えます。次に、「人の体の70パーセントは水で出来ているので、人に“悪い言葉”を使うと体の中の水が影響を受けてしまうから、“悪い言葉”を使わないようにしましょう」という結論に持ってゆきます。

 このような「水からの伝言」を用いた授業の問題点について、以下に項目を分けて解説してゆきたいと思います。
道徳を安易に科学で裏付けようとすることの誤り

 先ず第一に、そもそも道徳を科学で裏付けようとすること自体にも問題があると言えます。道徳は人間の心の問題であって、安直に科学が介入すべきものではないからです(※この場合はニセ科学ですが、仮に事実としても同様です)。何れにせよ、道徳を安直に科学で裏付けようとすること自体がニセ科学的だと言ってよいでしょう。
見た目で物事を判断することの誤り

 次に、「“ありがとう”はよくて“ばかやろう”は悪い」という安直な二分法自体にも問題があります。言葉はそれだけで切り出すべきではなく、「場面」と合わせて初めて意味を持つものです。誠意のこもらない口先だけの「ありがとう」よりも、愛情をこめた「ばかやろう」の方がよい場合も多いことは誰でも知っている通りです。
 事の善悪しは自分の頭で考える(考えさせる)べき問題であって、善悪の判断を水の結晶形に委ねてしまう行為は「思考停止」と言ってもよいでしょう。大体において、“何がよい言葉で何が悪い言葉か”というのは、私たち人間が一生懸命に考えるべき人の心についての大切な問題なので、水に答えを教わるような性質の問題ではないはずです。また、科学云々とは別に、「きれいな結晶が出来るのはよい言葉」などというように、見た目のきれいなものがよいものだと決めつけているのも、よく考えればおかしな話です。サン=テグジュペリではありませんが、「目に見えないものが大事」なので、物事を見かけだけで判断することは決してよいことではありません。見た目のきれいさ・汚さだけに囚われてはいけないということも道徳で習うはずの事柄ですが、この一事からも「水からの伝言」の主張は道徳教育に違背することが分かります。顔の悪い人は性格も悪いのでしょうか? 水戸黄門の悪役はプライベートでも悪人なのでしょうか? よく考えれば分かるはずです。
道徳教育で嘘を教えることの誤り

 もちろん、「道徳の授業に使うなら、事実でなくても構わないのではないか」と考える人がいるかも知れません。しかし、「水からの伝言」は明白なニセ科学であって、これを事実として教えること自体が理科教育に完全に違背しています。その上、道徳教育でデタラメを事実として教えることは、「嘘をつくな」と教えるべき道徳教育で生徒に嘘をついていることになります。教えたいことが正しいとしても、本当ではない「実験事実」を本当だと言って(つまり嘘をついて)教えてしまってよいものではないはずです。上記のような反論は分からないでもないのですが、要するにこれは「目的のためには手段を選ばず」の主張であって、これこそ反道徳的な行為と言わざるを得ません。「“ありがとう”がよい言葉だと教えられるのだから、それでよいのではないか」という主張も同様です。
結論:「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考える理由

 人の心は素晴らしい力を持っています。他の人たちを思いやる心、愛と感謝の心は、とても大切です。しかし、繰り返しになりますが、それと「水が言葉の影響を受ける」という“お話”には何の関係もありません。
「水からの伝言」が刷り込みになり詐欺商法にも・・・。

 子どもたちばかりでなく、大人たちも、この「水からの伝言」といった“お話”を科学的な根拠の主筒だと信じてしまいました。科学者を中心に、これがニセ科学であることが表明されているにも拘わらず、多くの人たちがこの“お話”を信奉しています。

 では、「水からの伝言」を鵜呑みのすることに一体どのような弊害があるのでしょうか? 実は「水からの伝言」の主張を真に受けてしまうと、ゆくゆくは詐欺の被害者や加害者を増やす結果になる危険性があるのです。たとえば「波動」について解説した箇所でも説明したように、「水が情報を記憶する」という考え方が、「水に健康な細胞の情報を記憶させることが出来る」に発展し、実際そのような「波動を水にコピーする」怪しげな装置を高額で売り付けるという悪徳商法が行なわれているようです。体調が悪かったり難病に罹っている人に対して怪しげな足裏診断をやって、「この装置で作った水を飲むと健康になれる」などと言って売りつけるのだそうです。
 人を信じることはよいことですが、それと同時に正しい批判精神も持ち合わせていないと、この手の信じやすい人は詐欺師の格好の餌食となってしまいます。「水からの伝言」に限らず、ニセ科学は詐欺商法とつながりやすいことにも充分に留意して下さい。

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これってホント?

 世間には、上で取り上げた「水からの伝言」以外にもたくさんのニセ科学がはびこっています。本項ではニセ科学とされる主張を列記し、その一部についてその内容を簡単に紹介してゆきます。
ニセ科学を列記してみれば・・・

 本節では、世間でニセ科学であるとされることの多いものをとにかく列記してみました。そのリストを見ると、びっくりするようなものをあるでしょう。
 なお、下記のリストの一部については下の節で簡単ながらその内容を紹介しています。該当項目のあるものにはリンクを貼ってありますので、クリックすればその箇所に飛ぶことが出来ます(※ただし、取り上げた順番はリストの通りではありません)。


■ニセ科学のリスト
創造科学:
 聖書の世界創造を真実として進化論を否定したキリスト教原理主義の創造論に科学的根拠を与えようとした言説。アメリカでは深刻な問題となっている。
ルイセンコ事件:
 後天的な獲得形質の遺伝を主張。イデオロギー(国家)が科学の方向を決めた事例。
超心理学:
 超能力の科学的研究。真面目な研究者もいて、科学とニセ科学の境界とも言えるが、超能力の存在を前提としている研究はニセ科学と言える。
血液型人間学:
 人間の性格は遺伝物質である血液型(ABO式)と関連性があり、人間の性格は血液型によって分類できるという主張。一種の民間信仰と化したニセ科学の実例。
波動:
 ニセ科学が等しく好む現代のニセ科学。(上で解説済み)
フリー・エネルギー(永久機関):
 フリー・エネルギー装置が出来れば資源問題は解決出来るとして研究する研究者が多い。自然法則に反するため、特許は降りない。
マイナス・イオン:
 ニセ科学であるにも拘わらず、大手家電メーカーがこぞって市場参入。
EM菌:
 万能の土壌改良剤。ゴミ処理・水処理・土壌改良に役立ち、食料問題や環境問題は全てこれで解決すると万能の効果を謳う。※効果がないわけではないのが難しいところ。
ゲルマニウム:
 効能はともかく、「ゲルマニウムは32℃以上で電子を放出するから健康によい」という主張は全くの事実無根。
ゲーム脳の恐怖:
 脳科学の専門家の間では科学的根拠のない主張であるとの見方が強い。テレビゲームのやりすぎがあらゆる社会問題の原因としたところが如何にも短絡的でニセ科学的。
脳内革命:
 ゲーム脳と同様、専門家の間では科学的根拠のない主張であるとの見方が強い。全てを脳内麻薬で解説。
100匹目の猿:
 「ある行動や考えなどがある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」とする主張。初出のライアル・ワトソン自身が後に捏造であったことを白状した。
ドーマン法と「奇跡の詩人」:
 効果が疑問視されている知的障害者用のリハビリ理論と、少年の著作活動に対して親による捏造が疑われた。NHKの番組放送で批判が噴出。
七田式幼児教育:
 社会問題化してもおかしくない問題だとする専門家も多い。
市民運動とニセ科学:
 自分たちの運動にとって都合のよいものだけを信じるといった「結論が先にあり、イデオロギーが科学に優先している」事例。
日本企業によるるニセ科学研究への参入:
 ソニーのエスパー研究所や国立放射線医学総合研究所(現在は独立行政法人)での遠隔外気功の研究など。
 実はこの他にも「ホメオパシー」や「反相対性理論」「星占い」などニセ科学と言われるものはまだたくさんあるのですが、キリがないのでこの辺で止めておきます。

血液型人間学〜人間をステレオタイプに分類する一種のゲーム

 血液型人間学を信奉している方も大勢いらっしゃるでしょう。本節ではまず最初に、一般によく知られている血液型人間学を取り上げて、その疑問点を詳しく指摘ましした。
血液型性格判断とは?

 一般に広く浸透しているニセ科学の例として、「血液型性格判断」というものがあります。
 よく知られている通り、血液型人間学は「血液型(ABO式)によって人間の性格(気質)を分類することが出来る」というもので、たとえば「A型の人は几帳面、B型の人はマイペース、O型の人はおおらか、AB型の人は二重人格」などと言われます。

血液型人間学のニセ科学としての疑問点


少なすぎるデータで判断する
都合のいいデータだけ示す
片寄ったデータで判断する

血液型人間学は何故受け入れられ、信じられるのか?

 血液型が性格と関係ないことが分かってしまったので、心理学者は次に「何故みんなが信じてしまうのか?」を研究しています。


フリーサイズ(F):
 「ある血液型の特徴はこれこれである」という記述が実は誰にでも当てはまってしまうようなものであるため、読んだ人が「当たった」と思ってしまう(バーナム効果)。なお、これは血液型に限らず、あらゆる性格診断で起ることです。
ラベリング(B):
 上とも関連しますが、「これがA型の特徴です」と言われてからA型の人を観察すると、そのラベルに引っ張られてその人を判断してしまうという傾向が多くの人に見られます。
インプリンティング(I):
 最初に「当たっている」と思うと、その経験が刷り込まれ、そういう行動を取ってしまう、つまり「自分がそういう性格だと気づいてしまった」という状況に陥ります。
単純化:
 上のラベリングとも関係しますが、本来は一筋縄ではゆかない「人間の性格を簡単に分類する手段がほしい」という単純化の欲求があります。
 なお、心理学者の大村政男は、上の3つを合わせてこれを「FBI効果」という言葉で説明しています。

ニセ科学としての実例

 このように、血液型人間学は心理学の問題としては既に充分に研究されており、血液型と性格の関連は科学的には認められていないわけですが、もちろん血液型人間学も発表当初からニセ科学であったわけではありません。むしろ研究としての目のつけどころはよかったのではないかという見解もあるのです。
 ただ特に心理学の問題としては、「血液型と正確に関係があるとは言えない」という結論が出てしまった後の“民間信仰”的ブームです。「血液型と性格は関連があるはずだ」という前提で議論を続けるのはやはりニセ科学なのです。要するにこれは、その仮説が否定された後の対応によって、普通の科学にもニセ科学にもなるということの実例です。
血液型性格判断の何が問題なのか?

血液型人間学は人間のラベリングであり、差別思想に通じる。

 もちろん、「心理学のアンケート調査では関連が見つからなくても、血液型と性格が実は微かな関係がある可能性は否定出来ないのではないか。或はABO式以外の血液型の一部と性格に関連性が見つかるかも知れないではないか」といった疑問を持つ人もいることでしょう。それはその通りなので、将来そのような結果が出ても一向に構わないのです。しかし、現在流行している血液型性格判断は、そのような微かな、或は一部の関連性を云々しているわけではなく、人間の性格を4分類に単純化した主張で、あらゆる種類の差別思想と同じ人間をラベリングする思想です。

 事実、就職・配属等で血液型による選別が行なわれた事実があり、これは紛れもない差別です。また、一時はB型バッシングがあったとも言います。大体において「血液型による性格分類は科学的である」と思い込んで、それを企業の採用や職場の配置にまで血液型を考慮するなどということは、これは人種差別と同様の非科学的根拠に基づく行為であると言わざるを得ません。たとえば「偶々生まれつき血液型がB型だったせいで就職出来ないとか管理職につけない」という企業があったとしたら、それは「黒人は就職できない」という人種差別と何ら変わるところがない思想なのです。
 血液型人間学には、実際にこのような弊害が指摘されています。単に遊びではすまされない問題に発展していると言ってよいでしょう。
ルイセンコ事件〜イデオロギーが科学の方向を決めた事例〜

 ルイセンコ学説とは、「環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝する」とするソ連の農学者トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコの学説を言い、発表当時大変な論争を巻き起しました。そしてそれに伴い、ソ連邦における反遺伝学キャンペーンが展開されたため、ニセ科学が一国の社会・政治・経済を揺るがす大事件になった例としてよく知られています。

 この学説は1934年に発表され、スターリン政権下で「マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論を証明するものだ」として、メンデルの遺伝学はブルジョア理論として否定されました。すなわち、ルイセンコは人為的な操作によって遺伝的性質が変化すると主張し、これまでの遺伝学や進化論を否定したのですが、このような「後天的に獲得した性質が遺伝される」というルイセンコの学説は、「万民平等」を謳い、「努力すれば必ず報われる」と主張する当時の共産主義国家には都合のよい理論であったため、スターリンはこれを強く支持したのです。
 このように、イデオロギー的に都合がよいかどうかで学説の正否を決めてしまうなら、それはまさにニセ科学であると言ってよいでしょう。
フリー・エネルギー又は永久機関〜自然法則にも違背するニセ科学

 自然法則(熱力学の第1&第2法則)に反するため日本では永久機関に対して特許は降りません(※ちなみにフリーエネルギー装置とは無からエネルギーを生み出す装置で、第1種永久機関と言います。これはエネルギー保存の法則を破ります。) それにも拘わらず研究者は後を絶ちません
 フリー・エネルギー研究者の多くは、装置が出来ればエネルギー問題が解決すると思い込んでいる善意の研究者なのですが、しかし、「フリー・エネルギーがあれば、どんどんエネルギーを使っても大丈夫だ」と考えるのは基本的に誤っています。循環型社会やシンプルライフの必要性が叫ばれる所以ですが、エネルギー問題と環境問題は分かちがたく結びついており、エネルギー消費が増えればそれだけ環境負荷は増すのです。そういう意味では、「エネルギーさえ作ればエネルギー問題は解決する」という考え方自体がニセ科学の要素を持っていることは頭に入れておくべきでしょう。
マイナス・イオン〜ニセ科学であるにも拘らず大手家電メーカーがこぞって参入

 「滝の周囲で清々しい気分になるのは、滝でマイナス・イオンが発生するからだ」などと言われて、マイナス・イオンが発生するという触れ込みの家電製品を購入した人がいるかも知れません。
 しかし、実はこれもまた根拠のないニセ科学だったのです。そもそも、マイナス・イオンの定義からがはっきりしていません(※化学で言う陰イオンならば、たとえば塩水には塩素の陰イオンが大量に含まれていますが、塩水が身体によいというような話は余り聞いたことがありません)。どうやら陰電荷で帯電した微少な水滴のことをマイナス・イオンと言うらしいのですが、それがどんなメカニズムで人を“清々しい気分にさせる”かは全く不明なのです。むしろ、「滝の周囲は水滴が蒸発することで気温が下がり、それを清々しいと感じる」と考えた方が余程納得出来るというものです。事実マイナス・イオン発生装置の一部には、水を細かく粉砕して噴霧するタイプのものもあります。

 何れにせよ、マイナスイオンはニセ科学であるにも拘わらず、どういうわけか大手家電メーカーがこぞって参入して一大ブームとなってしまいました。マイナス・イオン発生装置と呼ばれるものはには幾つかのタイプがありますが、たとえば松下電工はマイナス・イオンを発生するドライヤーを開発して販売しましたし、シャープはエアコンにマイナス・イオンを発生する装置を取り付けました。 現在は大手家電メーカーは市場から手を引いたようですが、ニセ科学に参入した家電メーカーは”大手”なりの責任をきちんと取る必要があるでしょう。
市民運動とニセ科学〜自分たちの“運動”にとって都合のよいものだけを信じる傾向〜

 時として市民運動家がニセ科学に入れ込むことがあります。
 市民運動家には元々、“原発の悪い点や大企業の悪い点、大規模開発の悪い点といったものを提示してくれる説は信じて、そうでない説は信じない”という傾向がどうしても見られるのですが、要するに彼らにとっては、“結論が先にあり、イデオロギーが科学に優先している”のです。そして、市民運動家に自分のイデオロギーと相性のよいものを受け入れる(信じたいものを信じる)傾向があることが指摘出来ます。また、最近の市民運動の特徴として、ニューエイジ的な思想が好まれる傾向も指摘することも出来るようです。
 しかし、何れにせよ自分たちのイデオロギーに合う説だけを受け入れると言うのならば、それは、別項でも触れたルイセンコ事件の縮小再生産版みたいなものであると言ってよいでしょう。これはニセ科学の特徴のひとつです。
(※なおこういった傾向は、特に例は挙げませんが、民間療法など健康法の実践家の間でもよく見られる事実です。) 
まとめ〜少しずつでよいから理性と批判精神を培ってゆこう〜

 こうやって色々と事例を挙げてくると、今まで信じていたものを否定されているようで、心穏やかでなくなる人もいるかも知れません。これは無理もないことで、ニセ科学批判に合うと誰でも感じる感情です。
 もちろん人によっては、それでも血液型人間学を信奉し続け、各説を信じ続ける人もいるでしょう。それはそれで仕方がないことかも知れません。

 けれども、このような批判的な主張を読んで批判精神を培い、悪徳商法に騙されないような理性を少しずつでもよいから身につけてゆければよいと思います。
 今回のテーマは、反発する人も多いかとも思いましたが、敢えて取り上げました。

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