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今月のワンポイントアドバイス

 子どもの自殺報道を始めイジメの問題が昨今マスコミをを賑わせています。
イジメは昔からあったとは言え、昔のイジメと現代のイジメとは一体どこが違うのでしょうか? 今月は、このイジメの問題を真正面から取り上げてみました。イジメ自殺の問題を始め、イジメの実態や心理、その基本的認識などにつき詳しく解説し、合わせてイジメ克服の問題も考えます。


イジメの実態とその克服
イジメの実態とその心理
〜大人が見て見ぬふりをするとイジメはエスカレートする〜
イジメの背景とその基本的認識〜イジメてもよい理由なんてひとつもない〜
イジメ自殺を防ぐために〜君は一人ぼっちじゃない〜
イジメ問題の克服に向けて

イジメの実態とその心理〜大人が見て見ぬふりをするとイジメはエスカレートする〜

 近頃精神科を訪れる思春期症例が増加しているそうですが、これらのうち登校拒否や心因反応、心身症などの症例では、その症状の背後にイジメがあることが少なくないことが専門家によって指摘されています。たかがイジメだと思う人もいるかも知れませんが、このように、イジメも手遅れになると、その子どもに精神的・肉体的に深い痛手を与え、ついには死を選びかねないほどイジメは深刻な問題なのです。

 本項では、イジメ自殺やイジメ克服の問題を取り上げる前に、イジメの実態やイジメ問題をめぐる心理学的な背景について詳しく見てゆくことにします。
イジメの定義と実態〜その内容と特徴〜

 文部科学省によると、イジメとは、

(1)自分より弱い者に対して、
(2)一方的に個人または集団で身体的・心理的な攻撃を意識的かつ継続的に加え、
(3)イジメられた人が想像もできないほどの深刻な苦痛を感じているもの。
※なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。

 と、このように定義されています。


 イジメは日常の人間関係の中で起こります。一場面だけを傍目から見ると、仲間同士の悪ふざけやケンカ、ちょっとやりすぎの行為などと軽く見られてしまいがちかも知れません。また、言葉の暴力だけでイジメられる例も少なくないことで、「軽い口喧嘩」と見過ごされてしまうこともあるでしょう。しかし、それが学校という閉ざされた空間で複数の人たちによって日常的に繰り返されているとしたら、それは決して「悪ふざけ」でも「軽いケンカ」でもありません。イジメは生きる力を奪う体と心への“暴力”です
 しかし、大人がイジメを見逃したり見て見ぬふりをしていると、子どもは黙認されたと思い、エスカレートしていくのもイジメの特徴です。最初は小さな芽でも、あっという間にイジメは手がつけられなくなるほど大きくなってしまいます。イジメは断固として否定しなければなりません。


イジメっ子をめぐる環境図


発見しやすいイジメ
金銭強要や傷害を加える暴行などの非行を含む問題行動によるイジメ


発見しにくいイジメ
遊び(プロレスごっこ・鬼ごっこ等)、からかい、無視、イタズラ、ふざけなど行動として識別しにくいイジメ


■いじめの内容(小・中・高合わせたもの)
□男子
1位 悪口・からかい
2位 殴る・蹴る
3位 仲間外れ、無視
4位 物隠し、物汚し
5位 言い掛かり・脅し
6位 用事を言い付ける
7位 人に笑われたり叱られたり、することを無理にされる
□女子
1位 仲間外れ・無視
2位 悪口・からかい
3位 物隠し・物汚し
4位 言い掛かり・脅し
5位 人に笑われたり叱られたり、することを無理にされる
6位 用事を言い付ける
7位 殴る・蹴る
※これらの行為は人権を侵害するものであり、時に尊いいのちを失わせる大きな罪になるのです。

■イジメの特徴
本人に聞いても言わないことの方が多い。(その理由は、「自尊心から」「親に心配をかけたくないから」「チクったとしてさらにイジメられるから」など)
学級のみんな・部活動のみんなが加害者になっていることがある。(※イジメのターゲットが自分に回わって来ないように、多くの者が加害者の立場に立ってしまう。) 
イジメの深刻さを認識しないで、からかいやイタズラなどの遊び感覚でイジメる(本人は屈辱を堪えてニコニコしながら抵抗)。
学校の内外で特定の生徒が数人のグループをつくり、その中のメンバーの一人をイジメのターゲットにしている(しかし、外からは気の合う仲良しグループに見える)。

■イジメを見た時、その場に居合わせた時の子どもの対応(※文科省調査より)
□小学校
1位 関わらないようにした
2位 後でその人を慰めた
3位 やめるように言った
4位 後で先生に話した
5位 後で親に話した
6位 一緒にイジメられた
7位 イジメを応援・参加
□中学校
1位 関わらないようにした
2位 イジメを応援・参加
3位 後でその人を慰めた
4位 やめるように言った
5位 後で親に話した
6位 一緒にイジメられた
7位 後で先生に話した
□高等学校
1位 関わらないようにした
2位 イジメを応援・参加
3位 後でその人を慰めた
4位 一緒にいイジメられた
5位 やめるように言った
6位 後で親に話した
7位 後で先生に話した

イジメの中心は中学生

 中学生は青年前期に当たり、心理的に親への依存から離脱しつつあり、「自分とは何か」「人生とはどのようなものか」といった人生上の悩み、さらに異性や進学、友人に関しても劣等感や不安を抱きやすい年代です。「青年ほどその深い孤独から接触と理解とを渇望している者はない」とも言われます。後でも詳しく触れますが、現在価値観が多様化し、マスコミから矛盾し合う各種の情報を与えられて、子どもたちは“何が正しくて何が現実なのか”、同一化しうる価値観に混乱を来しています。小学校入学以前からテレビを通じて見せらつけれる暴力、ルールのないプロレス乱闘などは、正しい批判力の未熟な子供にとって大きな影響を与え、イジメの原因のひとつとも考えられています。
 イジメの中心は中学生であると言われますが、その中学生の自己評価は不安定で、自信がない自分であるが故にますます友人に好かれ・重んじられようとして周囲に同調しやすい傾向があります。この不安定な心理や孤独感が群集心理的に“異質な他者”をイジメることで充足されるところに、集団による個人へのイジメの背景があると言ってよいでしょう。一方この年代でイジメられる側になった当人にとっては、それは場合によっては自殺に陥るほどの極めて重大な心理的苦痛に追い込まれるのです。

 とにかく、小・中学生の子どもに対して親は暖かい家庭的団欒で育み、子どもが自ずと出す不安や悩みのサインを素早く汲み取り・共感してゆくことが大切です。子どもが小学校上級生や中学生になったら、人生について、学校や友人について、また進路や将来の職業について、親子でじっくり話し合う雰囲気と時間を作るべきでしょう。シカトするという集団で一人を無視し仲間外れにするイジメがありますが、今の子どもたちは親からも先生からも無視されているのでないかと思いたくもなるのです。

学年別いじめの発生件数
イジメをめぐる心理学的背景

 「ただふざけていただけ」「ほんの冗談」「あいつが悪い」・・・イジメている側は色々と言います。言い訳ではなく、本当にそう思っていることもあるかも知れません。彼らには「自分は加害者だ」という意識は希薄です。それに対して、イジメられている方は深刻な被害を受けます。「毎日が地獄だった」「死にたくなった」「学校に行きたくなくなった」等々と彼らは語ります。不登校になる生徒もいます。神経症的な症状が出る人もいます。追い詰められた結果、イジメの被害者の方が過激な乱暴を働いてしまうこともあるかも知れません。客観的には小さなことであっても、影響がとても大きいのがイジメなのです。何れにせよ、“軽い気持ち”が相手には“大きな苦しみ”になることを忘れてはいけません。

 本節では、イジメをめぐる心理学的な背景についてなるべく詳しく考察してゆきたいと思います。
イジメっ子、イジメられっ子はどう思っている? 


イジメっ子は、「イジメられている奴はイジメられて当然だ」と思ってる
 イジメが善いことか悪いことかとテストに出せば、どの子どもも「イジメは悪いことだ」と解答することでしょう。けれども、人の心の中には、誰かをイジメてストレスを解消したり、誰かをイジメることで自分の劣等感を誤魔化し、歪んだ優越感を持ちたいと思ってしまう部分もあるのです。それでも、イジメはやっぱり悪いことだと彼らも知っています。しかし、悪いことなのに、自分はそれをやっているというその事実をそのまま認めると、当然心は苦しくなります。それではイジメを止めればよいのですが、大抵はイジメという行動は変えずに自分の考えの方をを変えます。イジメは悪いことだというのは変えにくいので、そのため「あいつはイジメられて当然の人間だ」と思い込むのです。

傍観者も、「イジメられっ子が悪い」と思い込めれば心は楽になる
 イジメっ子と同様、まわりの傍観者たちも、「イジメられっ子が悪い」と思い込めれば心は楽になります。出来ればイジメを止めたいと思いながらも、そんなことをすると今度は自分がイジメられるかも知れないので、イジメを止めることが出来ない。けれども、自分のそんな心を認めてしまうのは辛いことなので、そこで、イジメっ子と同じく「あいつはイジメられても当然の人間だ」と思い込むのです。これは、イジメられる子に問題があるというよりも、やはりイジメっ子や傍観たちが自分の心を守るために作り上げた幻想だと言ってよいでしょう。

イジメられっ子は、「僕は、私は、イジメられても当然だ」と思ってしまう
 「あいつはイジメられても当然だ」とみんなが思うと、その思いは当然イジメの被害者であるイジメられっ子にも伝わります。現実にクラスのみんなが一人残らず自分をイジメたり、イジメっ子を囃し立てたりしてイジメっ子を黙認しています。そんな状況に置かれると、「自分はイジメられても当然の人間だ」と自分自身でも思ってしまいます。「自分は正しく、イジメっ子や傍観者が悪いのだ」と強く思えればよいのですが、中々そう思えるものではありません。「自分はダメな人間だ」と思い、思い詰めれば自殺まで考えます。

イジメられっ子は、「僕には、私には、味方はいない」と思ってしまう
 誰でも心が弱り傷ついている時には広い世界を見渡すことが出来るものではありません。そういう時は、自分自身のことと、そのほんの周囲のことしか見えなくなるものです。先にも書きましたが、クラスみんなからイジメられていると感じている子どもは、自分は世界中からイジメられているように感じてしまいます。誰も味方がいない、独りぼっちだと感じてしまうのです。助けてくれる人・味方になってくれる人もたくさんいるはずなののに、その現実が見えなくなってしまいます。クラスの中にも、声は出さなくても味方はいるかも知れないのに、そんなことは少しも考えられなくなってしまうのです。世界の中で独りぼっちだと感じてしまえば、その子がたとえば死を考えたとしても不思議はないでしょう。

イジメによってなぜ傷つくか? 

 現代のイジメは昔のイジメとは違うと言われます。昔のように特定のイジメっ子が特定のイジメられっ子を狙うのではなく、現代のイジメは集団で長期に渡って一人の子をイジメ続けるのです。悪口・無視・嫌味・・・その一つひとつは小さなことかも知れませんが、クラスの中でイジメられると、子どもは世界中からイジメられているように感じてしまいます。イジメを止める人間がいないことも現代のイジメの特徴ですが、クラスの中で誰も助けてくれないと、「世界中が助けてくれない」と感じてしまいます。昔のような特定のイジメっ子がいるのであれば、「あいつが悪いイジメめっ子で、僕は悪くない」と思うことも出来ます。ところが、大勢で長期間イジメられ続けると、イジメる側が自分の正当性を主張するだけでなく、被害者の子ども自身までもが、自分が小さくダメな人間だと感じるようになってしまいます。「こんなダメな僕なんかいなくなった方がよい」とまで思ってしまうのです。

 なお、イジメの事実を大人に言えないことはよくあることですが、これは、仕返しを恐れるだけでなく、言葉に出してしまうことで、自分がイジメを受けるような弱い小さな人間だと認めてしまうような気がして誰にも言えない時があるのです。さらに、もしも極端にひどいイジメを子どもが長期間に渡って受け続けていたとしたら、長期反復性の心的外傷を受けることにもなるでしょう。
なぜSOSを出せないのか? 

 「助けて!」と声を上げれば、きっと助けてくれる人がいるはずなのに、なぜ言わないのでしょう? 
 クラスを挙げてのイジメはとても過酷です。激しく自尊心を痛めつけられ、心が傷つきます。だから、自分がイジメられていることをイジメられっ子も認めたくないのです。仕返しが怖くて言わないこともありますが、「イジメられているから助けて」と言ってしまうと、どうしようもないほど自尊心が傷つき、惨めになってしまうことを彼らは心の底で恐れているのです。(※後でも少し触れますが、心理学的に見ればイジメっ子もまた傷ついた心を持ち、援助と慰めを必要とする子どもたちなのですが、今現在イジメられて苦しんでいる子がいれば、まずはイジメられっ子の立場になって守ることが必要でしょう。) 
イジメっ子の心の問題

 イジメという人権問題の立場からすれば、“イジメられっ子は何も悪くなく、イジメっ子が100パーセント悪い”ことになります。しかしそうであっても、イジメがどんなに卑怯な行為であっても、心理学的・教育学的に見れば、イジメっ子もまた援助を必要としている子どもたちなのです。

 なお、イジメを長期に渡って続けている子どもの中には家庭に問題を抱えている子どももたくさんいます。強い劣等感や人間関係の不安を持っている子どももいます。彼らは、人生が上手くゆかなくて欲求不満が溢れそうになっているのです。叱りつけるだけでは決して問題は解決しません。ただし、だからといって、イジメ被害者本人や家族の前で、「イジメっ子にもイジメられるだけの理由がある」とか「この程度のことで……」「この子だけが悪いんじゃない」などと決して庇ってはいけません。当然のことですが、被害者側はとても傷つきます。何れにせよ、どんな理由があってもイジメが正当化されてはいけないので、従ってイジメっ子への援助はまた別の問題として扱わなくてはならないでしょう。

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イジメの背景とその基本的認識〜イジメてもよい理由なんてひとつもない〜

 イジメ問題の背景と要因には一体どのようなものがあるのでしょうか? 
 イジメ自殺やイジメ克服の問題を取り上げる前に、本項ではイジメ問題に関する基本的認識についてまず確認し、その上でイジメ問題の背景について考えていきたいと。
イジメ問題に関する基本的認識

 イジメられてよい理由を持って生まれたいのちはひとつもなく、同時に他人を傷つける権利を持った人も一人もいません。イジメは心と体を傷つける人権侵害です。当たり前の話しですが、誰かをイジメてよい理由などひとつもなく、イジメた人が絶対的に悪いのです

 イジメ問題の背景を探る前に、本節では、まずイジメに対する基本的認識について詳しく見てゆきたいと思います。
(1)「弱い者をイジメることは人間として絶対に許されない行為である」との強い認識に立つこと

 誰であろうと、また何であろうと、特定の誰かをイジメてもよい理由なんてひとつもありません。まずは、世間一般に流布している「イジメられる子どもにもそれなりの理由や原因がある」という考え方で問題を片付ていまう風潮を徹底して排除しなければなりません。
 当たり前のことですが、イジメは誰よりイジメる子どもが悪いのであり、イジメられる子どもの責めに帰すことは断じてあってはなりません。また、「イジメは大人の社会を含め人間集団には必ず見られるものだ」とか、或は「イジメられる子どもの方にこそ強く生きる力や耐える力を身に付けさせなければいけない」などといった、「イジメられる子どもの方にも問題がある」との考え方も世間一般に未だ根強く見られます。しかしながら、こうした考えはイジメの問題への積極的な取り組みに水を差し、かつイジメの責任の所在を曖昧にするものだと言わなければなりません。
 このような考えがある限り、イジメの解決へ向けての取組は徹底していきません。そして、「どのような社会にあっても決してイジメは許されない、誰が何と言おうとイジメる側が悪いのだ」という明快な一事を、毅然とした態度で、特に子どもたちに行き渡らせたいものです。それがイジメの問題についての基本的認識の第一です。

 イジメはその人の将来にわたってその内面を深く傷つけるものです。イジメとは、子どもの成長期における脳の形成時に深く刻まれる傷として一生の残ってしまう、健全な成長に影響を及ぼすまさに人権に関わる重大な問題です。「暴行・恐喝といった犯罪行為に相当するイジメはもとより、言葉によるイジメや無視などの態度によるものも含め、およそイジメは卑劣な行為であり、人間として絶対に許されない行為なのだ」という認識を一人ひとりの子どもに徹底させなければなりません。社会で許されない行為は子どもでも許されないものであり、何をしても責任を問われないという感覚を子どもに持たせてはなりません。また、「イジメは子どもの成長にとって必要な場合もある」などといった考えも認めることは出来ません。イジメは子どもの間の問題として疎かにすることの出来ない深刻な問題であり、保護者や教師を始め大人の一人ひとりが積極的に子どもの世界に手を差し伸べて的確に対処しなければならない問題であるということを正しく理解する必要があるでしょう。
 イジメる子どもとイジメられる子どもの他に、イジメの周囲でイジメを囃し立てたり傍観したりする子どもが多く見られます。「イジメには出来るだけ関わらないようにした」と答える子どもの割合は高いと言われます。「イジメを囃し立てたり傍観したりする行為もイジメる行為と同様に許されないのだ」という、イジメに関する正しい認識を子どもに持たせなければならなりません。イジメを止めようと自ら行動し、或は保護者や教師に知らせるなど、「イジメを見たら見捨ててはおかない」という正義感や思いやりを子どもたちの間に行き渡らせる必要があります。そのためには、当然ながら、イジメられている子どもや、イジメを告げたことによってイジメられる恐れがあると考えている子どもたちを徹底して守るという毅然とした態度を、保護者や教師は子どもたちに対して日頃から示しておかなければなりません。
(2)イジメられている子どもの立場に立った親身の指導を行なうこと

 イジメられている子どもがイジメを認めることを恥ずかしいと考えたり、或は「イジメを告げたために余計にひどくイジメられる」と考える余り、保護者にも教師にも話さず、その事実や悩みを子どもが抱え込んでしまうことが少なくありません。また、イジメは外からは見えにくい巧妙な方法や形態で行なわれることも多く、それがイジメ発見を遅らせているという実情があります。従って保護者や教師は、イジメやその兆候を見逃してしまうことのないよう常に子どもたちの活動を注意深く観察している必要があります。また、子どもの悩みを親身になって受け止め、子どもの発する危険信号をあらゆる機会を捉えて鋭敏に感知するように保護者や教師が努めなければなりません。なおその際に留意すべきことは、イジメかどうかの判断はあくまでもイジメられている子どもの認識の問題であるということです。表面的・形式的な判断で済ませることがないよう細心の注意を払う必要があるでしょう。

 イジメは特別の児童生徒間または特別の学校での事柄ではありません。いつ自分のクラスの児童生徒や自分の学校に深刻なイジメ事件が発生するかも知れないという気持ちを常に持っていることが大切です。遠くの町の他人の事件だと考えるような甘さや油断は禁物であり、個々の教師がイジメに関して危機意識を持たなければなりません。これまでの事例をみると、イジメの問題を自分に関わる切実な問題として捉えることが必ずしも十分に徹底されておらず、イジメの発見等が適切になされなかった例が少なくありません。 また、イジメに対しては、「何よりもイジメられている子どもを守り通す」という立場を明らかにして、全教職員がどんな些細なことでも必ず親身になって相談に応じることが大切でしょう。教師がイジメられている子どもの立場に立って親身の指導を行ない、真摯で毅然とした取組をすることによって深刻なイジメ事件を防ぎ、解決に向かわせることが出来るのです。そのことを一人ひとりの教師が自覚し、自信を持って対応してほしいものです。
 なお、イジメの実態調査について、ともするとイジメの件数が少ないことの一事をもって良しとする傾向が見られることに注意を喚起したいと思います。イジメの発生を見ない学校が望ましいことはもちろん言うまでもありませんが、イジメの件数が少ないことのみをもって問題なしと判断することは早計と言わなければなりません。イジメの多寡と同様に、或はそれ以上に大切なことは、万が一イジメが発生した場合、それに如何に迅速かつ適切に対応し、イジメが悪化することを防止し、或は早期に真の解決を図るか、といったことであると思います。
(3)イジメは家庭教育の在り方に大きな関わりを有していること

 子どもの人格形成に一義的な責任を持つものは家庭であることは論を俟たないでしょう。従って、イジメの問題の解決のために家庭が極めて重要な役割を担っていることは言うまでもありません。しかしながら、都市化の進展や核家族化の進行など家庭や家族を取り巻く社会環境の変化の著しい中で、家庭の教育機能の低下や躾の不徹底といった状況が生まれていることも事実です。このことは、イジメの問題を考えるに当たっても極めて重大な問題だと言わなければならなりません。

 戦後、経済的な豊かさや物質的な満足はある程度達成出来たが、心の豊かさは不充分なままに、昨今、子ども同士、或は子どもと大人、また大人同士の信頼に基づくべき人間関係が希薄化している状況があります。特に子どもは、様々な生活体験や社会体験、自然との触れ合い、また、異年齢間での切磋琢磨などを通してその健全な成長が期待出来るにも拘らず、しかし、現代社会においては、そのための機会が不足して来ていることも否めない事実です。当然ながらこのことは、他人への思いやりや生命や人権の尊重、善悪の判断、正義感、遵法精神等の基本的な倫理観、或は自尊心や自律心などといった生活態度の形成に大きなマイナスの影響を与えているものと思われます。これはもちろん社会全体で受け止めなければならない重大な課題ですが、何よりも家族全員が協力して、まずその責任を果たすべきだと思います。「弱い者をイジメることは人間として絶対に許されない行為なのだ」というイジメの問題の基本的な考え方は、まずは家庭において責任を持って子どもたちに徹底されなければなりません。我が子がイジメられていることを見過ごさない保護者であると同時に、もちろん他の子どもをイジメることを絶対に許さない保護者であるべきなのです。こうした家庭教育の基礎となるべきものは、当然ながら家族の温かい愛情や精神的な支えであり、また信頼に基づく厳しさでもあります。親子の会話や触れ合いを確保するために、家族の団欒や全員揃っての活動はもちろん、親子での地域行事への参加など様々な工夫が図られるべきでしょう。また、親は子どもが豊かな自然体験や社会体験を経験できるようにすることも積極的に心懸けてほしいものです。
(4)イジメ問題は教師の児童=生徒観や指導の在り方が問われる問題であること

 イジメの背景としては既に上で述べたような複雑な要因が絡み合っていると考えられるますが、イジメは一般的に、弱い者や集団とは異質な者に対して攻撃または排除しようとする傾向と関わって発生することが多いと言われています。これまで私たちの社会では、率直に言って、いわば「同質に囚われる社会」として、個性を尊重し、個々の差異を認め合うことの大切さが十分に顧みられて来なかったと言わざるを得ません。そして、このことが子どもたちにも影を落としているのです。子どもたちの間に、仲間と群れていないと不安になる心情や、「無理をしても仲間と同じであることがイジメを受けないための防御となる」といった考えが見られることがそれを証明していると言ってよいでしょう。すなわち、進んで仲良しグループに加わっているのではなく、「一人でいるとイジメられるから」という消極的な理由で行動を共にするような表面的な友人関係の例も多く見られるわけです。何れにせよ、このような行動が、子どもたちの個性の伸長や自我の確立、豊かな情操の涵養の観点から好ましいものでないことは論を俟たないでしょう。そこで、この過度の同質志向を排除して、「個を大切にし、個性や差異を尊重する態度やその基礎となる新しい価値観を育てる」という児童=生徒観に立ち、これに基づく指導を徹底することがイジメの問題への根本的な取組として極めて重要となると考えられます。学校での個性の尊重や個に応じた指導をより一層徹底することが強く望まれます。

 子どもたちは一人ひとり多様な個性を持つかけがえのない存在です。教師は「こどもの個性を尊重し、子どもの人格のよりよき発達を支援する」という児童=生徒観・指導観に立つことが極めて重要であり、また、教科指導にあっても個に応じた指導の一層の推進を図り、一人ひとりの子どもにとって自ら参加出来、かつ分かりやすい授業を確保するとともに、さらに子どもたちにとって学校生活が何よりも明るく楽しいものとなるようにしなければなりません。このような観点から生徒指導を含め学校運営全般の見直しを行なっていく必要があるのではないでしょうか。 また、個性や差異の尊重は、教科指導や生徒指導の面で行き渡らせるばかりでなく、特に道徳教育や心の教育を通しても指導する必要があります。お互いを思いやり、尊重し、生命や人権を大切にする態度などを育成することは、やはりイジメの問題の根本的な解決に不可欠であると言えるでしょう。その際、特にかけがえのない生命や、生きることの素晴らしさや喜びなどの指導に当たって、発達段階に応じて死や自殺についても考える機会を提供できるような配慮も求めたいと思います。これは、いわゆる「いのちの授業」や「死の授業」の必要性でもあります。
 最後に、教師の何気ない言動が子どもたちに大きな影響力を持つこと、また、校内暴力が見られたり授業が成立しないなどの雰囲気の下ではイジメが多くみられること、ましてや、あってはならない教師の体罰がイジメへの取組に少なからぬ影響を及ぼしていることに特に注意を促しておきたいと思います。
(5)家庭・学校・地域社会など全ての関係者がそれぞれの役割を果たし、一体となって真剣に取り組むことが必要であること

 いま大切なことは、イジメの解決に向けて関係者の全てがそれぞれの立場からその責務を果たすことです。イジメの問題には少なくとも大人の一人ひとりが、親として、地域社会の一員として、また、子どもたちの教育環境や社会環境を形成する社会の職業人として少なからぬ責任を有しており、一人ひとりがその責任を自覚して、それぞれの立場で出来るところから積極的に取り組むことで、社会全体として子どもたちの間のイジメを許さない機運を醸成する必要があると思います。その上でイジメの問題の速やかな解決を図るため、関係者や関係機関がより一層この問題に関して連携を密にし、一体となった取組を求めたいものです。
 とりわけ、イジメの問題を考えるに当たって、マスメディアの在り方や各種の雑誌などの有害環境の問題を看過することは出来ないでしょう。特にテレビ番組の影響で他人をイジメることで笑いを誘うことを社会の多くで容認する風潮が生まれていることには強く注意を喚起したいものです。他人をイジメるという人権に関わる卑劣な行為を笑いの対象とすることは絶対に許されないことですが、こうした社会一般の傾向が子どもたちの健全育成に大きな影を落としていることも事実だと言ってよいでしょう。このことに国民の一人ひとりが気づき、賢明な視聴者として危機感を持たなければなりません。価値観が多様化している現代社会の中で、“何が正しく、何が間違っているか”を十分に認識し切れない子どもたちが、テレビの映像等を目にして、他人をイジメるという行為を無意識のうちに当たり前のこととして捉えてしまうるばかりか、それを模倣して面白がったり喜んだりする状況が生まれています。また、テレビ等が子どもたちへの影響の重大さを考慮することなく暴力や死について安易に取り上げていることの問題点も指摘したいと思います。そのことが子どもたちの心の健全な発育を少なからず妨げているのです。
 その他に、地域を挙げた取り組みもやはり急務と言ってよいでしょう。その際、学校は必要以上にイジメの事件を学校で抱えることなく、保護者やPTAはもちろん、日頃から教育センターや児童相談所、人権擁護機関、警察などの関係機関、また青少年団体やスポーツ団体などの関係団体との連携を図る必要があります。さらに、地域の実態に応じてボランティア団体などと連携することを積極的に検討すべきでしょう。
イジメ問題の背景

 イジメの背景については種々の議論があり、また、個々のケースによって様々であるため、現時点でその要因について特定することはとても難しいことだと言わざるを得ません。ただ一般的には、以下に掲げるような様々な要因が複雑に絡み合っているものと考えられます。
 本節では、イジメ問題の背景について、(1)家庭、(2)学校、(3)地域、そして(4)社会全体の4つの側面から詳しく分析してゆくことにします。
(1)家庭における要因

 家庭において乳幼児期から基本的な生活習慣や生活態度が十分に教育されていないということがまず第一に考えられます。特に思いやりや正義感、善悪の判断についての躾が徹底されていないという問題があります。
 また、家庭は本来子どもにとって真に安らげる「心の居場所」であるべきにも拘わらず、現状は必ずしもその機能が十分に果たされず、子どもにとって精神的な支えの場となっていないということも挙げられるでしょう。要するに、親子の間に必要な心の通い合う信頼関係が現在希薄化しつつあるのです。
 さらには子どもとの会話の不足もあって、「イジメは人間として絶対に許されない行為である」といった基本的な考え方が十分に徹底されないままになっているという傾向も窺われます。また、価値観が多様化する中で親自身が子どもに対する躾に不安を抱いている状況も窺われます。また、たとえば父親が家庭で子どもと触れ合う機会が少ないことも、これらの問題を根深いものにしている要因のひとつと考えられます。

 このことに関連して、子どもたちの間に「どんな理由があってもイジメは絶対にいけないことなんだ」という意識が徹底されていないという状況が浮かび上がって来ます。イジメた体験のある子どもの中には、イジメた時の気持ちとして後悔の念を抱く者も少なくありませんが、調査によると、中・高等学校に進むに従って、「面白かった」「いい気味だと思った」などと答える者の割合が増加するとともに、「可哀想だと思った」「後で嫌な気分になった」「叱られるかも知れないと思った」などと答える者の割合が減少している。また、中・高等学校では「イジメは面白そうだ」「イジメは大したことではない」「人のことだから気にしない」などと答えた者の割合が全体の子どもの回答に比べて高く、正義感や思いやりなどに関する調査項目について積極的に答える割合は低くなっていると言います。その一方で、「人に迷惑をかけないなら悪いことをしても許される」と考える者の割合は中・高等学校に進むに従って増加している状況です。
 また、「家での生活が楽しくない」と答える子どもにイジメの体験が多くなる傾向が見られ、イジメた体験のある子どもには「親は私のやることに色々口を出す」と答える者の割合が全体より高く、逆に「親は私のことを分かってくれていると思う」と答える者の割合は低くなると言います。さらに、保護者がイジメの問題の原因・背景について家庭の教育力の問題として捉えるよりは、子どもたち自身の正義感やルール意識・思いやりのなさの問題として捉える傾向も認められるそうです。
 なお最後に、イジメた経験のある子どもの保護者は「躾に自信が持てない」「子どもが勉強しない」と答えた者の割合が全体よりも高く、特に中・高等学校の保護者は「子どもの考えていることが分からない」「配偶者が協力的でない」と答えた者の割合が高い傾向があると言います。
(2)学校における要因

 学校については、様々な努力にも拘らず単一の尺度で児童生徒を評価しがちな傾向がなおも見られること、一人ひとりの個性や特性を伸ばす教育が十分に行なわれていないこと、また、ともすると指導が柔軟性に欠け、児童生徒の多様な実態に十分に対応出来ていないといった問題を指摘しなければなりません。また、学級内に信頼や思いやり、正義感、或はイジメは卑怯な行為であることの認識などを行き渡らせる指導が徹底していないことも窺われます。

 担任教師のイジメに関する考え方については、「イジメはどんな理由があっても絶対に許されないことだ」と考えている教師は約9割存在しますが、このうち、この問に「非常にそう思う」と答える教師は、小・中学校で約7割、高等学校で約5割にとどまると言います。またその一方で、「イジメは児童生徒の成長にとって必要な場合もある」などと考える教師が何と2割前後もおり、また、「基本的にはイジメは子どもの世界に委ねるべき問題だ」と考える教師も、小・中学校で約1割、高等学校で約2割ほどいるとのことです。さらに教師の中には、イジメの問題の原因や背景として家庭教育の問題を第一と考え、学校の指導の在り方や教師の指導力といった学校教育の問題として受けとめている者が3〜4割と全体的に少ないといった面も否定出来ない状況です。ちなみに、このことと関連して、イジメられた体験のある子どもは「先生を信じることが出来る」「先生は思いやりがある」と考える者の割合が全体と比較して低い状況があります。また、中・高等学校では「先生は正しくないことを許さない」と答えた者の割合が全体と比較して低くなっているとも言います。このように、教師の間に「弱い者をイジメることは人間として絶対に許されないことだ」という認識が十分に徹底されていないことが、結果として学校が一丸となってイジメに対して毅然とした姿勢で取り組む体制を作り出せないでいる一因ともなっているように思われます。
(3)地域社会における要因

 地域社会については、まず第一に、住民の連帯意識が希薄化し、“地域全体で子どもを育てる”といった意識が現在低下しており、よく言われることですが、たとえば“他人の子どもでも悪いことをしていれば叱る”とか“声をかける”などということが少なくなるなど、その教育力が低下していることを指摘しなければならないでしょう。また、都市化の進展等社会の変化は、同時に子どもの遊びに質的な変化をもたらすとともに、その場所や時間をさらに一層減少させ、子どもが自然と触れ合うことや、また年齢の異なる仲間づくりを行なうことを難しいものとしているといった状況があります。そのため、様々な生活体験を通して子どもが逞しく生き抜く力を十分に育てることが出来ず、子どもの社会で本来養われるはずの人間関係の力、すなわち相互の軋轢や摩擦などの人間関係の問題を解決するためのルールやノウハウを十分に身に付けられなくなっているという問題があるのです。要するにこうした中で、子どもの持つ本来のエネルギーが遊びや自然との触れ合いを通して適切に発散されていない、ということが生じて来ているという状況も窺われるわけです。
(4)社会全体の要因

 社会全体の問題として、先ず第一に、「イジメは絶対に許されないことなんだ」という意識が不十分であることを指摘しなければならないでしょう。「イジメは昔からあった」とか「大人の社会にもイジメは存在するものだ」などという考えが残る限り、イジメの問題を解決することは決して出来ないでしょう。私たちの一人ひとりが、どのような社会にあっても「イジメは絶対に許されないことだ」という認識を正しく持っていないことがイジメを生み出す土壌になっていることはやはり否定できない側面があります。
 それ以外に、“異質なものを排除する”という我々の社会に広く見られる同質志向の意識にも問題があると考えられます。子どもたちはこの「同質に囚われる社会」の影響を受け、弱い者や異質な者に対してイジメを加えたり、或はイジメを受けないための防御行動として表面的に仲間に加わっているという傾向が見られるわけです。

 先にも若干触れた通り、社会全体に人間関係が希薄化してきていることも問題として指摘しなければならないでしょう。他人との深い付き合いを避けて出来るだけ他人のことには関わらないという風潮が昨今見られますが、こうした傾向が子どもたちにも影響して、子ども同士の人間関係が表面的・形式的なものとなっている状況が認められます。また、大人の社会に見られる自己中心的で他人の迷惑を顧みないなどモラルを欠いた行動が子どもたちに影響を与えている面も否定出来ないと思われます。たとえば「仲のよかった友だち」をイジメルというケースが多い傾向が最近表われており、子どもたちの人間関係の変化や信頼関係の希薄化を示していると考えられます。

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イジメ自殺を防ぐために〜君は一人ぼっちじゃない〜

 イジメを原因とした子どもの自殺報道が続いています。大きな自殺報道は次の自殺を誘発し、さらに報道が大きく長引き、悪循環として自殺の連鎖が生じます。これは多くの自殺予防の専門化が語るところですが、しかし、この伝染のような連鎖は止められます。自殺は防ぐことができる死です。

 全国の交通事故による死亡者1万人に対して、自殺者は3万人もいると言います。子どもを交通事故から守るように、大人は子どもを自殺からも守らなければなりません。交通事故の防止には莫大なお金をかけ、あちこちで交通安全教育がなされています。それならば自殺防止のためにももっともっと多くの努力がなされてもよいとはずです。何れにせよ、身近に子どもの自殺があった場合、また子どもの自殺が大きく報道された場合には、子どもは影響を受けやすいので特に注意しましょう。
自殺予防のために〜君は一人じゃない〜

 「イジメの心理」の項目でも解説したように、クラスでイジメを受けている子どもは世界中からイジメを受けているような感覚を持ち、自分がいらない存在のように思い込むものです。ですから、「君は一人ではない、私は君のことを心配しているよ」と伝えましょう。大切に思っているのですから、真剣にその子の話を聞きましょう。相手が自殺に関して口に出せば、こちらもしっかりとその言葉を受け止め、本当に自殺を考えているのかどうか聞きましょう。他の人の力も借りて、「君は一人ではない」というメッセージをその子に伝えましょう。他の身近な人、そして専門家、みんなの力で、彼を心理的にも物理的にも孤独にせずに支えてゆきましょう。


身近な大人が心懸けること
 大きな自殺報道が続いている昨今、まずは同じような子どもたちの上に自殺の危険性がいつもになく高まっていることを認識しましょう。、
 校長先生が全校集会でいのちの大切さを訴えることもよいですが、それよりもむしろ生徒一人ひとりの顔が見える教室で、生徒一人ひとりの状態をよく理解している担任教師が子どもたちのフォローをする必要があります。もしも普段からイジメや嫌がらせで悩んでいる子どもがいれば要注意です。言葉をかけましょう。様子を注意しましょう。教師が事情を掴んでいなくても、元気がないとか塞ぎ込んでいる子どもがいれば、まずは言葉をかけ、様子を注意して見ましょう。また、以前自殺未遂をした経験のある子どもがいれば特に要注意です。しっかりとフォローしましょう。イジメの問題や悩みが明るみに出て、いつもなら「来週時間をかけて扱おう」と思う時でも、今は出来るだけ直ぐに対応しましょう。自殺の危険性があるのだと考えましょう。これは、伝染病が流行っている時にはいつも以上に衛生に気をつけるのと同じことです。
 教師だけではなく、もちろん両親・祖父母など身近な人によるアプローチも大切です。友だちの助けもとても重要です。イジメられている子や悩んでいる子で、親にも先生にも言えないけれど、友だちになら言えるという子もたくさんいます。専門家の活動も大切ですが、まず身近な人々の一言が子どもを救うことになるかも知れません。

心に寄り添う
 「いのちを大切にしよう」という感動的なお話は、それはそれで意味があります。けれども、自殺の危険性が高まっている時にまず必要なことは、声をかける、気持ちに寄り添うということです。
 死者に鞭打つことは出来ませんが、自殺を美化することも出来ません。かといって、亡くなった方や自殺未遂をした人を「いのちを粗末にする」などと非難してはいけません。それでは、いま死を考えている人の心を却って追い詰めてしまいます。彼らは決していのちを粗末にしてはいるわけではありません。大事だからこそ激しく傷つき、死ぬしかないと思い込んでしまうのです。また、通りいっぺんのお説教も意味がありません。声をかけ、悲しみや辛さに共感しましょう。

参考:自殺のサイン
 青年の自殺に比べると、子どもの自殺はサインが出ません。でも、「元気がなさそうだ」と思った時に声をかけるのことは何であれよいことです。
 一番はっきりとしたサインは死について語ることです。「死にたい」「消えたい」といったことを語った時には、親も教師も友だちも、その子の訴えを真剣に聞いてあげましょう。そのことを話題としておしゃべりをしましょう。「死にたいという人に限って死んだ試しはない」などという言葉がありますが、自殺予防の観点からすれば、「死にたいといっている人は実際に死ぬかも知れない」と考えることが大切です。

イジメ報道と自殺連鎖〜自殺連鎖の危険性が高いのは?〜

 派手な自殺報道をすると、そのあと自殺が増えます。大きな自殺報道は次の自殺を誘発するのです。危険性が高いのは、同じような地域・性別・年齢・悩みの人たちです。当然ながら自分たちの地域で自殺事件が発生した時にはさらに注意が必要です。家庭や学校も、注目を集めるような自殺報道がなされた時には注意が必要です。不安定な精神状態の子がいれば特に気をつけなくてはなりません。諸外国では自殺報道の内容に注意を払い、さらに大きな自殺報道をする場合には必ず自殺予防の情報を付け加えることになっています。

 それと関連することですが、マスコミ報道が自殺の連鎖を生んでいることは確かでしょう。しかし、だからといって報道しない方がよいのかといえば、もちろんそれは違います。問題は“どのように報道するか”です。まずメディア側も、また読者・視聴者の側も、まずは大きな自殺報道は自殺連鎖を生む危険性が大きいことを自覚しなくてはなりません。
 自殺現場の映像を繰り返し放送する、自殺方法を詳しく報道する、遺書の内容も詳しく知らせる・・・これらは自殺連鎖の危険性を増加させます。最も危険なのは、自殺を美化すること、或は自殺が「成功」したかのような報道です。たとえば「自殺したことで亡くなった子はみんなから同情され、イジメっ子は懲らしめられ、大人たちは深く反省した」といったふうに、まるで自殺してよかったと言っているかのような報道はとても危険です。もちろん死者に鞭打つような報道は出来ませんが、必要以上にセンセーショナルな報道は控え、「自殺は決して問題解決にはならない」と伝えなくてはなりません。
参考1:子どもの自殺の特徴

 子どもの自殺の特長は、衝動性や確実な手段・小さな動機・影響の受けやすさ・未熟な死生観などがあります。子どもの自殺は統計上はそう多くはありませんが(自殺者3万人の中で小・中学生の自殺は80人ほど)、しかし、小さな子どもが自ら命を絶つほど悲しいことはありません。
 参考までに、子どもの自殺の特徴について、項目を分けて以下で簡単に解説しておきました。


□1 衝動性
 大人から見ると、子どもは何の前触れもなく突然自殺してしまいます。年齢が低いほどその傾向は強いようです。理性が十分発達していないことや感情が高まりやすいことなどがその原因と考えられます。

□2 確実な手段
 高齢者の自殺は確実な方法を取ることが多いと言いますが、子どもも首つり自殺のような致死度の高い方法を取ることが多いようです。ただし、高齢者の自殺が考え抜いた末の覚悟の自殺であるのに対して、子どもの自殺は感情的になって、実行しやすい方法を選んでしまった、と言えるでしょう。(※なお、青年期の自殺はしばしば時間のかかる自殺方法を選ぶため、他の年齢よりも自殺未遂者の数が多い。)

□3 動機
 子どもの自殺にも当然ながら動機はありますが、大人には理解出来ない小さなキッカケで自殺してしまうことがあります。大人にとっては小さなことでも、子どもにとっては死を考えるような深刻なことかも知れないのです。

□4 影響されやすさ
 上でも触れた通り子どもは友だちの自殺や自殺報道に影響されやすいので、周囲の注意が必要です。

□5 死生観
 子どもの死生観については別にで詳しく触れますが、子どもは、たとえば死を現実的なものとは考えられなかったり、或は死を美化してしまうことがあります。・・・死生観について詳細

□6 その他
 その他、子どもは純粋すぎたり敏感すぎることがあります。また、不登校や家出・非行などが自殺の前に起こることもあります。或は友人に同情して一緒に死んだり後追い自殺することもあります。

□7 参考:青年期の自殺の特徴
 参考までに青年期の自殺についてに一言で言えば、それは「助けを求める心のSOS」ということが出来るでしょう。彼らは命をかけた人生最後の賭けに出たのです。子どもたちと同様、青年たちも、大人から見ると死ぬ理由とも思えないような理由で死を選びます。彼らは、もしかしたら積極的に死にたいと思っているのではなく、積極的に生きていく理由を失っているだけなのも知れません。
 もちろん彼らの「死にたい」という思いは真実なのですが、自分でも気づかない心の底で彼らも「生きたい」と強く思っているのです。だから、彼らは死に方にこだわります。ただ死ねればよいのではありませんから、美しい死に方、淋しくない死に方を探します。ネット集団自殺などもそのひとつだと言ってよいかも知れません。決して狂言自殺ではないのですが、彼らは薬を大量に飲み、或は屋上のフェンスを越えたところで佇みながら、心の底では、誰かが気づき、誰かが問題解決に手を貸してくれるのを、そして、自分の苦しい気持ちを理解してくれる誰かを待っているのです。

※昨今、若者たちに「死にたい気分」が蔓延しているように思えてなりませんが、中学生の自殺の場合などは、子どもの自殺の特徴が見られることもあれば青年期の自殺の特徴が見られることもあるでしょう。参考までに乗せました。

参考2:子どもの死生観と教育〜子どもに死と命をどう教えるか?〜

 本節では、子どもが抱く死生観とそれをめぐる問題について、参考までに以下で詳しく解説しました。
死生観とは?

 死生観とは死についての考え方でです。また、それは生と死についての考え方でもあります。“いのちをどのように考えるか”によって死に対する考え方も変わってきます。だから、いのちと死についてどのように考えるかという死生観は、その人の人生の在り方をも左右する大変重要な価値観でもあるわけです。
死生観の発達


□(1) 子どもたちのいのちの理解
 大人は、当然のこととして「生きている生物」と「生きていない無生物」とを分けて考えることが出来ます。そして、「いのちある者は全ていつかは必ず死に、また、死んでしまった者はもう動かないし、生き返ることは決してない」と分かっていいます。そのような理解に基づいて、大人は死についての自分なりの考え方を持つのです。しかし、子どもがこのような死についての知識と感覚を持つまでには成長を待たなくてはなりません。

幼児期の子どもはアニミズム的な世界観を持っています。すなわち、「全てのものにいのちがある」と感じているのです。その段階から始って、成長に伴い、「動くものにはいのちがある」と考えるようになり、その次には「自分の力で動くものにはいのちがある」と、このように理解の仕方が変化してゆきます。そして最後に、「生物だけにいのちがある」ということが分かるようになります。子どもたちは、児童期になってようやく様々なものにいのちを感じてしまうアニミズム的な考えから離れてゆくことが出来るようになります。


□(2) 死の理解の発達
 子どもの発達段階に従って、死の理解の変化を見てゆきましょう。

乳児期:
 2歳児でも「生きてる」とか「死ぬ」とかいう言葉を使うことからも分かる通り、乳幼児といえど死を感じ取ることは出来ます。ペットが死んで涙ぐむこともあるでしょう。しかし、たとえそうだとしても、乳幼児が大人のように死を理解しているわけではありません。この段階では、「死」と、単に「見えない」「動かない」こととの区別すら十分に出来ていません。

幼児期:
  幼児期になっても、死は「一時的な離別」(=どこかへ行ってしまう)や「眠り」(=そのうちに目覚める)との区別が不十分です。ですから、幼児でも家族が死んだら当然悲しみはするのですが、しかし、本当の死の意味を理解しているわけではないのです。そのため、たくさんの人が集まる葬儀の場で興奮して楽しくなり、笑顔で遊んだりすることもあるわけです。死の意味が分からず遊ぶ幼児を見て却って悲しみが増す人も多くあるでしょうが、子どもを叱りつけて子どもの心を傷つけてしまう大人もいます。大人から見れば不謹慎なのですが、死の意味を理解していない幼児にとってはこれは仕方ないことです。

児童期:
 この頃になって、やっと死の「不可逆性」(=死んだら生き返らない)を理解することが出来るようになり、死を深く悲しむことが出来るようになります。しかし、まだ死の「普遍性」(=全ての者が必ず死ぬ)や死の「不動性」(=死んだら動かない)の理解が足りず、「死は特別な病気や事故によって起こる」と考えたり、或は「自分には死は訪れない」などと感じる場合もあります。

学童期:
 小学校中学年頃になって、ようやく死の不可逆性・不可避性(普遍性)・不動性を理解し、「死は誰にとっても避けられないものなのだ」ということが受け止められるようになります。それでも、全ての子どもが完全にこのことを理解するわけではなく、小学生になってもアニミズム的な感覚が残っていたり、「死んでも生き返ることがある」と考えることもあります。十分に死を理解するには青年期までかかることになるのです。

思春期:
 思春期の頃には、多くの子どもたちが何らかの形で死やいのちについて考えるキッカケとなるような出来事に出会うことでしょう。この体験をどのように活かしてゆくか、また、この時期に死といのちに関するどのような教育をするかが、死生観の健全な発達のために特に重要となります。昨今「いのちの授業」や「死の準備教育」の必要が叫ばれる所以であります。

参考:テレビゲームと死生観について
 なお、死生観の発達にテレビゲームなどのバーチャルリアリティーが悪影響を及ぼすとの主張は昨今よく聞かれるところです。しかしながら、それを実証するデータは今のところ殆どないのが実情です。ただ、テレビゲームに夢中になる余り他の遊びや様々な体験をする機会が減るとすれば、それは当然、死生観の正常な発達にも影響を与えることにはなるでしょう。
いのちの教育〜その指導上の留意点

 日常の生活の中で死と生を体験し学んでゆくことが死生観の基礎となるでしょう。たとえばペットの死や身近な人の死という現実を誤魔化さないことが大事です。ただし、単純にペットの死を体験させたり、或は単なる見学のように火葬場の中を見せたりしても、それは死といのちの教育にはなりません。そんなことをしても、子どもをただ不安にさせるだけの場合すらあるでしょう。そうではなくて、死を仲間や大人と共に体験し、同じ思いを分かち合ってゆくことこそが、その体験によい意味を持たせることになるのです。
 また、学校教育の中で適切な指導を受けつつ、様々な死といのちの体験をしたり、国語や道徳の中で死といのちに関する作品を深く味わったりすることは大変大きな意味があるでしょう。ただしその土台には、日常生活での死といのちの体験がなければなりません。また、家庭や地域で得た死といのちに関する知識と体験を学校教育を通して整理し理解してゆくことも大切でしょう。しかし、いのちの大切さをお説教するだけで終わってはなりません。教材の工夫だけで終わってもなりません。子どもと共に悩み、考え、死と命の問題を共有してゆく中で、子どもたちは死といのちの意味を実感として感じ取ってゆくことでしょう。

 なお、死といのちの指導に関しても、まずはレディネス(=学習するための心や体の準備)が重要であることは論を俟ちませんです。当然ながら、子どもの死についての理解度を教師は見ながら指導しなくてはならないでしょう。たとえば死への理解が不十分な小学校低学年の時期に死の現実を突きつけることは、子どもにとって辛い体験になってしまうこともあるかも知れません。子どもが死の現実に直面しなければならない時には、子どもの心に不安がいっぱいにならないように守ってあげることが必要です。しかし、だからといって死の現実から子どもを遠ざけすぎるのは、折角の教育の機会を失うことになってしまいます。たとえば祖父母の死はもちろん悲しいことですが、その事実を通して、死を悲しみ、故人を懐かしむ大人たちを見ることで、子どもは死を理解してゆくことでしょう。そして、死を学ぶことはいのちを学ぶことにつながってゆきます。家族の死を乗り越えることが出来れば、それは最高の「いのち教育」です。ただしその際は、大人が忙しさで子どものことを構ってあげられなかったり孤独感を感じさせたりすることなく、子どもに寄り添って、一緒になって死という現実を体験し悲しみ、死を受け入れ、そして乗り越えてゆくことが大事です。
子どもと死〜いくつかの問題

 死と対面した時、人はショックを受け、呆然とします。次に混乱・怒り・苦悩・攻撃・身体の不調、逸脱行動などが見られると言われていますが、このような過程は誰しもが通るところです。不安定になっている人を支えるために周囲の理解と受容が大切です。子どもの場合には、特に感情の表現能力が低いために自分の感情を十分に表現することが出来ません。死の不安と恐怖から自分を守るために感情を抑圧し、まるで何事もなかったかのように振舞うことすらあります。或は感情が表現される代わりに体の症状となって表れることも多いでしょう。
 さらに、愛する者との「分離」(入院・離婚・死別など)を体験する時、子どもはしばしばその分離と自分とを関連づけて考えてしまいます。たとえば「自分が悪い子だったからお父さん(お母さん)がいなくなった」というように考え、自分を責めることもあるでしょう。或は恰も故人が意図的に去っていたかのように感じ、「どうして自分を残してお母さん(お父さん)はいなくなってしまったのか」と、怒りと悲しみの入り混じった感情で傷つき、苦しむこともあるかも知れません。
 このような場合には大人の適切な介入が必要です。子どもの誤解を解き、感情を表現出来るように援助することが必要なのです。子どもを持つ家族の中には、入院や葬儀の準備に忙殺され、家族の死でショックを受けている子どもを守るだけの余裕がない家族もあります。その中で、ひとり孤独に泣いている子どもがいます。或は子どもに「死」を見せないようにするために病状の悪化を隠し続けていたり、葬儀に参加させなかったりする親御さんもいます。しかし、これでは子どもにとっては死と突然に直面することになってしまいます。これでは、死をきちんと悲しむことで受け入れてゆく「グリーフワーク(喪の作業)」の妨げにもなりかねません。

※死については家庭の中で多くのことを学ぶべきですが、今その家庭の教育力が落ちている現状があります。学校が果たすべき役割は大きいでしょう。
最後に〜子どもといのち

 「生きている実感がない」と語る少年・少女たちがいます。「リストカットをしたり万引きをしたりしている時だけ生きている実感がある」と語る少年・少女もいます。いのちに関する感覚が鈍くなっている若者たちがいます。
 ちなみに、自殺の危険性が高い子どもの背景には自殺の危険性が高い親がいると言いわれます。青少年の自殺行動は家族内の混乱と密接に関連している場合が多いのです。たとえば少年たちが親から意識的・無意識的に邪魔者扱いをされているケースも少なくありません。

 自分のいのちを価値ある大切なものと感じられるようになるためには、他者から愛され認められることが必要です。特に重要な他者である親や教師の態度はとても大切です。さらに、たとえば学校行事などを通して自分の役割を果たし、目標を成し遂げることで自分の価値を感じることが出来るようになるでしょう。このようにして健全な死生観を発達させ、自分のいのちの大切さを知り、いのちを輝かせている子どもたちが、人のいのちを大切にすることが出来るのです。周囲の人間から大切に育てられた子どもたちは周囲の人間を大切に思えます。社会から守られて育った子どもたちこそが社会を守る大人になることが出来るのです。

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イジメ問題の克服に向けて〜私たちは何をすればよいか〜

 最後に本項では、上記で解説してきた観点を踏まえ、イジメを克服するにはどうしたらよいのか、私たちは何をすればよいのかについて、学校や家庭、地域などの観点から考察しました。
学校の取り組み〜イジメを許さない学校づくりのために〜


イジメの発見と解消に学校が全力を尽くそう
 全教師がイジメ問題の重大性を認識し、小さなサイン・変化を見逃さず、学校全体として一致協力して正面から取り組む必要があります。

イジメられている子どもを発見したら全力で支えよう
 「弱い者をイジメることは人間として許されない行為である」との認識の下、毅然とした指導を行なうとともに、イジメられている子どもの立場(=味方)に立った親身の指導を行なうことが必要です。

見て見ぬふりの傍観者を許さない学校をつくろう
 イジメる子どもや、イジメを見てそれを囃したりする子どもはもとより、見て見ぬふりをする傍観する態度は許されないことなんだ、との認識を持たせるよう勤めることが大事です。

正義感や思いやりなど心の教育を充実しよう
 たとえばロールプレイやグループエンカウンターなどの手法を用いた人間関係づくりを重視するとともに、ボランティア体験を重視したりして、正義感や倫理観、思いやりなど心の教育の充実に努めることも大事です。

教師の使命は子どもの夢を育み、学びがいのある学校をつくること
 全職員の創意工夫の下、日々の触れ合いを重視して信頼関係を培い、子どもの夢を育み、学びがいのある学校をつくることが急務です。


■イジメの早期発見・早期解消のために
教師と子ども、子ども同士の信頼関係を深めること

「誰でもイジメの対象となり得る」という認識に立って教師間の連携を密にし、顔色など表情の変化や急に無口になるなどの態度の変化を始め子どもが送る小さなサインも見逃さないこと

子どもや保護者からイジメの訴えがあった時は、問題を軽視することなく真剣に耳を傾け、信頼関係を結び、速やかに対応すること

イジメの問題が生じた場合は、校長を始めとするそれぞれの教師の役割を明確にするとともに、具体的な改善策を講じ、継続的な指導に努めること

何でも気軽に相談できる窓口を設けるなど、日頃から家庭や地域・関係機関等に積極的に働きかけて情報を得ることで開かれた学校づくりに努め、家庭や地域社会との協力関係を築いてゆくこと

■子どもの夢を育み、学びがいのある学校づくりのために
日々の学校生活で一人ひとりに活躍の場があり、達成する喜びや所属感、自己存在感が味わえる子どもが主役の教育活動を展開する

子ども一人ひとりにとって分かりやすく達成感が持てる授業となるよう個に応じた指導の工夫改善に努める

イジメを無くす教師の役割〜信頼感と安心感に根ざした学級づくりを〜


学級の一人ひとりは“みんなちがってみんないい”

学級は、一人ひとりのよさを引き出し・生かし・伸ばす場であり、努力し合い、磨き合う場所

学級は、一人ひとりが学級の一員であることに喜びを感じ、安心して学び合い、将来への夢と逞しく生きる力を育む場所


■イジメを無くす学級経営8つの視点〜あなたの学級ではどんな工夫をしていますか?〜
□1 学級目標は学級全員の思いや願いが十分込められたものになっているか?
 学級経営とは、保護者の願いと子ども一人ひとりの思いや願いを生かしながら、担任と子どもたちが互いに力を合わせて魅力ある学級づくりをすることです。目標達成を目指す厳しさと仲間意識を支える優しさがあって初めて所属感や連帯感が生まれるのです。

□2 子どもたちの創意工夫を生かした活動が活発に行なわれ、達成の喜びや責任を果たした喜びを称え合う学級になっているか?
 たとえばみんなの知恵を出し合い、協力し合って成し遂げる創造的な係活動は、自己存在感や自己実現の喜びが味わえる学級づくりに大きな効果をもたらします。

□3 お互いの良さを認め合い、失敗が許される学級の雰囲気がつくられているか?
 自分とは異なる考えやお互いの良さを認め合うところに信頼が生まれ、好ましい人間関係が築かれます。また、真面目に努力することが最も賞賛され、間違いや失敗を許し合う学級でこそ安心感と磨き合いを生むのです。

□4 子どもたちの話し合う場を積極的に設けて一人ひとりの意見を尊重し、自己選択や自己決定の機会を保障しているか?
 自己選択や自己決定には自己責任が伴います。一人ひとりの自立を促すためにも、自分たちの問題を自分たちで話し合い、一人ひとりの意志を大切にしたいものです。

□5 意欲をもって張り込める授業、分かる授業の工夫をしているか?
 どの子も出来るようになりたいのです。教える授業から学ぶ授業への転換を図り、一人ひとりに学ぶ楽しさや成就感が味わえるようにしたいものです。

□6 躾の厳しさや努力の大切さが理解され、ダメなことはダメと言える学級となっているか?
 成長とは自己中心的な心や言動からの脱皮です。保護者や子どもたちに我慢する心や正義感など豊かな人間性の大切さが理解される必要があります。

□7 一人ひとりの子どもたちとの触れ合いや悩み相談の時間を充分に取っているか?
 イジメの小さなサインを見逃さないためには触れ合いが最も効果的です。そのための時間を生み出す工夫と努力が求められています。また、いつもと違う表情や態度が見られたり学校を休んだりしていたら、家庭とも十分に連絡を取り合うことも大切です。

□8 学級の問題の解決のために心を開いて他の先生や管理職と気軽に相談したり保護者に協力を得たりしているか?
 事態が進行する前に心を開いて教師に相談してくれれば、イジメられる子どもには最強の味方になれますし、また、イジメる子どもにはイジメに走る背景を察した指導に教師が自信をもって当たれるようになります。

子どもたちの役割〜いじめをなくすのは君たちです〜


君の勇気を示して下さい
 イジメられていることを大人に話すことを「チクッた」などと言う人がいますが、イジメを大人に報告することはもちろんチクりではありません。それに、人に何かを相談することは決して弱さの表われではありません。相談が出来る人は冷静で頭がよい強い人です。イジメられているのを話すのは大変だし、勇気も必要です。どうぞ誰かに話をすることで君の勇気を表わして下さい。今まで泣いてきても、悔しいことをされてきても、いま君は勇者です。みんなが君の味方です。話をすることで、相談することで、君の勇気を示して下さい。


■イジメられている友だちを見たり聞いたりしたら
イジメられている人の気持ちを考えよう
 イジメられている人の身になって見ましょう。何と苦しいことか、そして、何と悲しいことか、よく分かると思います。

イジメを見ても何もしないのはイジメているのと同じこと。勇気をもって行動しよう
 こんな時こそあなたの出番です。正義を愛する心、思いやりの心を持ち、勇気を出して、イジメに遭っている友だちを支えて上げましょう。

先生や友だちに相談しよう
 イジメだと思ったら、迷わず先生や友だちに相談しましょう。イジメを無くすことは人間としての務めです。

みんなの力で解決しよう
 学級(ホームルーム)や児童会・生徒会の話題にしてみましょう。みんなの知恵を集めれば、きっとイジメの無い安心して通える学校、楽しい学校が実現するでしょう。

■自分がイジメに遭ったら
「嫌なことは嫌だ」と勇気を出してきっぱり言おう
 イジメを許さず、立ち向かう勇気が大切です。

先生や友だち・親に相談しよう
 一人で悩まないで誰かに相談しましょう。きっと解決してくれるでしょう。

自分に対する自信を持とう
 苦しい時こそ自分の個性や自分の良さを考えてみましょう。きっといっぱい出て来ると思います。そんな自分に自信を持ちましょう。

■自分がイジメる人にならないために
“イジメられる人がどんなに苦しい思いをするか”考えてみよう
自分の一時的な感情を押さえられる人になろう
“イジメをする自分の心が如何に醜いか”気づく人になろう

家庭の役割〜生きる力の源は家庭にあります〜


家庭の団欒こそは生きる力の源です
 会話と笑いはストレス解消のキーワードです。家庭での会話と笑いは安心と元気を生み出し、生きる力の源となります。そのためにも家族そろっての食事の時間は大切にしましょう。

何でも話せて、温かく明るい家庭をつくろう
 何でも話せる温かく明るい家庭こそが子どもにとって真の心の居場所です。(※毎月第3日曜日は「家庭の日」。家庭の行事を計画したり仕事を分担したりして家族みんなで過ごしましょう。) 

“躾ける厳しさ”を持って人生を語れる家庭にしよう
 人間としての在り方や生き方について語り合い、心豊かに逞しく生きる力を育みましょう。

周りの人や家族の良さを素直に語れる家庭を築こう
 周りの人や家族についての心温まる話は素直な気持ちを引き出し、人への思いやりや感謝の心を育みます。

小さなサインを見逃さないで
 子どもにも親には知られたくないことはあるものです。沈んだ表情やいつもと違う行動を感じたら、決して見逃さず、温かい言葉かけで子どもの心を支えてあげましょう。

小さなサインを見逃さないで
 子どもにも親には知られたくないことはあるものです。沈んだ表情やいつもと違う行動を感じたら、決して見逃さず、温かい言葉かけで子どもの心を支えてあげましょう。

■我が子のイジメを察知した時
□イジメられる我が子には
□1 まず我が子の心を支え、我が子を守る親の真剣さを伝えよう
□2 信頼できる友達から情報を得よう
□3 学校(先生)や相談機関に相談しよう
□4 学校と家庭が力を合わせて援助をしよう
□5 場合によっては学校を休ませることも必要です
□イジメる我が子には
□1 悪いことは悪いとして毅然とした態度を取ろう
□2 イジメに走る背景を察して共に考えよう
□3 学校(先生)や相談機関に相談しよう
□4 イジメられた子どもの気持ちを思いやろう
□5 学校と家庭が力を合わせてよりよい生き方を学ばせよう

■よその子のイジメを見つけた時
見た人にも責任があります。放っておかず、毅然たる態度で注意をしましょう
社会連帯の意識をもって親へ、学校へ、警察へ、PTAへ連絡をしましょう

地域の役割〜子どもの健全育成は地域みんなの責任です〜


イジメを見た人にも責任があります〜場合によっては親・学校・公的な相談機関へ連絡を〜
 先にも述べたように、イジメを見つけた時は、放っておかずに毅然たる態度で注意をしましょう。

地域の活動に参加し、子ども一人ひとりを知って、声をかける大人になろう
 地域の行事やボランティア活動、子供会活動などに積極的に参加しましょう。地域の子どもと触れ合うよい機会です。地域の子どもを見かけたら挨拶を交わしましょう。

他人の良さを心から褒める大人になろう
 心温まる話題の多い地域でこそ心優しい子どもが育ちます。地域のみんなが他人の良さを認める心、進んで善いことをする心を持ちましょう。

子どもの模範となる大人になろう
 自分の弱さを克服しようと努力している大人の姿こそは生きる力のモデルです。子どもたちに大人の一生懸命生きている姿を示しましょう。

社会のルールをきちんと学ばせよう
 世の中には自分の思い通りにはならないことがあるのだということを子どもに知らせることも大切です。地域の行事やボランティア活動への参加を促し、共に活動しながら社会のルールをきちんと学ばせましょう。


■地域の子どもの一人ひとりを知り、声をかける大人になるために
地域の子どもの教育は地域全体の責任です
 「子どもは未来社会を託す人たちである」との認識を持ちましょう。

子どもたちと触れ合う機会を積極的につくろう
 子どもたちが参加できる地域の行事や古くから伝わる行事、ボランティア活動、子供会行事などに積極的に参加して子どもとの関わりを持ちましょう。また、地域でそういう機会をつくることも大切です。

■社会のルールを身に付けさせるために
大人が日常生活の中で子どもに自らの姿をもって示そう
 大人自らが交通ルールや挨拶、言葉遣い、他者への思いやりなど子どもの模範となるような礼儀や基本的な生活習慣を子どもたちに示すことです。

「社会で許されないことは子どもでも許されない」ことを教えよう
 「自分勝手で自己中心的な行動は、どんな仲間や間柄であっても許されないのだ」という“人間としてのあるべき行動”について教えましょう。

一人で苦しまないで〜相談窓口の必要性〜

児童生徒の皆さんへ〜決して一人で悩まないで
 あなたは、未来に出会うであろう人、そして友達や家族にとってかけがえのない存在なのです。一人で悩み、一人だけで考えていないで、近くにいる友達や家族や先生方に話をしてみて下さい。信じること、打ち明けることにより、あなたの心はきっと軽くなります。


 イジメの話を聞いて担任にも相談することを本人が了承してくれても、職員室に行って話をすることは殆どの子どもが嫌がります。賑やかで人の出入りが激しい職員室では、やはりそんな話はしづらいのです。相談をしてもらうためには、カウンセリング・ルームのような落ち着いた場所が必要でしょう。
 また、イジメ問題が明るみに出ると、学校はまず事実関係を明らかにし、イジメっ子の指導を始めます。それは被害者のためにももちろん必要なことです。ただうっかりすると、大人たちがイジメを止めさせ、反省させることに力を注いでいるうちに、被害者の傷ついた心が置いてきぼりになってしまう危険性も出てきます。大切なのは被害者の心を守ることです。
最後に〜イジメ克服のためのヒント

 我が子が深刻なイジメに遭った時、親は一体どのように対応すればよいのでしょうか? その対策は子どもの個性によって様々に変わってきますので、一概に“こうすればいい”というマニュアルは存在しません。或はマニュアル化することは、子どもの個性とは逆方向の間違った対応となる危険性すらあるでしょう。
 ただ、親の姿勢として心懸けておきたいヒントぐらいはあるで、多少重複もありますが、参考までにそのヒントを紹介して終わりにしたい思います。


ヒント1:内容を整理しながらじっくりと話を聞く
 日常的に繰り返されるイジメ。一体何があったのか、子どもの声に大人はじっくりと耳を傾けよましょう。我が子がイジメに遭っていると知ると動揺してしまうかも知れませんが、まずは親自身が落ち着いて子どもの話しをじっくりと聞くことが大切です。「何があったの?」などと質問攻めにせず、子どもの心に寄り添って話を聞きましょう。そして、話を聞きながら、いつ・どこで・誰に・何をされ、どう感じたか、また誰かに相談したかなどを整理し、時系列でノートなどにまとめていくようにするのもよいでしょう。子どもの話の裏付けとなるような証拠となるものがあれば保存しておくことも大切です。

ヒント2:子どもの安全が最優先と考えること
 何よりも子どもの命と心を優先し、安全を第一にした選択を考えることが大切です。心と体が深く傷つけられているなら、場合によっては、「いのちを磨り減らしてまで学校にゆくことはないんだよ」と、大人が子どもに話すことも必要かも知れません。ただそのためには、学歴や将来、さらには世間体よりも子どものいのちが大切だと親自身が覚悟を決めなければなりません。(なお、イジメによって子どもの生死が分かれる例は紙一重の差でしかないそうですが、死ななかった子の親は、時に世間から批判を受けるほどなりふり構わず必死で子どもを守っている例が多いとのことです。) 

ヒント3:学校や地域で味方を見つける
 まずは学校の先生や保護者など学校を取り巻く人と連携をし、協力を求めていくようにしましょう。日頃から何かあった時に相談出来る関係を地域に築いてゆくことも心懸けておきたいものです。学校で協力してくれる友だちや保健の先生など子ども自身の味方になってくれる人がいたらなおよいでしょう。なお、学校とは対立関係になるよりも、学校とは協力し合って解決を模索した方が当然子どもの利益につながります。ただ、学校がことを隠したり誠実な対応が期待出来ないような場合は、もちろん納得がゆくまで毅然とした態度で説明を求めてゆく覚悟も必要です。

ヒント4:味方がいなくても一人で悩まない
 学校の中に協力者がいない時や対応に納得のゆかない時は、学校外の機関に相談をしてみることもよいかも知れません(ただし、それが学校との新たなる摩擦になることもあるので、行動は慎重に行なうことが鉄則です)。相談機関には行政の相談室やイジメ問題に取り組むNPOなど相談機関は数多くありますが、相談に乗った担当者によって対応が違ったり、また、納得のゆく答えが得られないこともあるものです。そういった時は複数の相談者とコンタクトを取ってゆくのがよいでしょう。

※なお、いくつかの対策を行ないつつ、子どもの心の傷を癒すためにカウンセリングを受けるのもひとつの方法です。ただし「心の専門家」を過信してはいけません。カウンセリングを否定するわけではありませんが、カウンセラーによって一時的に癒されたとしても、根本的な原因であるイジメが続く限り、現実の生活が変わらず、それでは問題の解決にはならないからです。そのことも頭に入れ、「カウンセラーに任せておけば大丈夫」と思い込むことのないようにしましょう。

ヒント5:継続して見守ってゆく
 “何があっても子どもを守る”という強い気持ちを持ち続け、子どもを継続的に見守っていくことが大切です。親や教師などの大人が介入することで一時的にはイジメや暴力が落ち着いても、その後の状況を注意深く見守り続けることが必要です。イジメは静まった頃に再発することが多いのも特徴だからです。その場合は、イジメの内容はもっとエスカレートし、隠そうとする行動も巧妙になり、問題がさらに深刻になってゆきます。半年から1年は要注意期間だと考えて下さい。
 また、イジメが無くなった後でも、イジメられた子どもの心の傷は周囲が想像する以上に大きく、たとえば対人関係に自信がなくなったり、拒食症や不登校、引きこもり、自傷行為などに発展することもあります。場合によっては、その傷は大人になっても癒えないこともあるでしょう。ですから、家族だけで対応出来ない時には外部にも協力を求めましょう。同じ経験を持つ当事者組織などで経験を話し合うことで救われることも多くあるものです。


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