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 今年も早や12月。クリスマスが近づいてきました。
 クリスマスは元々キリスト教の救い主であるイエス・キリストの誕生を祝う日です。それがいつの間にか年末商戦のひとつとなり、年末の風物になっています。
 今月はクリスマス特集として、まずはクリスマスやサンタクロースの起源について取り上げ、その本来の意味を解説しました。
クリスマス


クリスマスとサンタクロースの真実
【1】クリスマスの起源と歴史
【2】サンタクロースの起源とその特徴
【3】クリスマス・シンボルの意味とその由来

【1】クリスマスの起源と歴史

 クリスマスとは本来、この世の救い主(メシア)であるイエス・キリストの誕生を祝うキリスト教のお祝いの日です。本来の意味を逸脱して年末の風物のひとつになっています。
 本節では、そのクリスマスの起源と歴史についてなるべく詳しく取り上げ、解説しました。
クリスマスとは?
メリー・クリスマスとはどういう意味?

 メリーとは、「楽しい」とか「愉快な」という意味で、英語ではMerryと書きます。つまりメリークリスマスとは、分かりやすく訳して言えば「楽しいクリスマスを!」という意味でなのです。たとえば「I wish you a Merry Christmas!」とか「A Merry Christmas to you!」(楽しいクリスマスがありますように!)とも言います。日本的に言えば「クリスマスおめでとう!」といったところでしょうか。
クリスマスって本当は何の日?

 クリスマスとは本来イエス・キリストの降誕記念日を祝うキリスト教の行事を言います。
 クリスマスは英語ではChristmasと書きますが、これは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味を持っています。一方、X'masと書く場合のXは、ギリシア語のキリスト(クリストス)ΧΡΙΣΤΟΣの第1字を用いた書き方で、この場合はXの一文字でChrist(キリスト)を代用しているわけです。なお、他の言語で言えば、フランス語のノエル(Noel) とイタリア語のナターレ(Natale)は共に誕生日を意味するラテン語から来ています。また、ドイツ語ではWeihnachtとも呼ばれ、これは「聖夜(キリストが生まれた夜)」という意味があります。また、12月25日をクリスマス・デー、その前夜をクリスマス・イブ、クリスマスから公現祭(1月6日)の前日(※時には1月13日または聖燭節=2月2日)までを特に降誕節( Christmastide)と呼ぶこともあります。ちなみに12月24日はクリスマス・イブですが、イブ(Eve)とは「前夜」を意味します。 これで分かる通りクリスマスとはイエス・キリストが約2000年前にこの世に生まれたことをお祝いするキリスト教のお祝いの日なのです。
クリスマスの起源

 キリスト教の聖典である新約聖書には、処女であったマリアが神の霊に満たされてイエスを生んだ処女懐胎の話が書かれています(『マタイによる福音書』1:18〜25、『ルカによる福音書』1:26〜38など)。しかし、その日がいつかということは何も語られていません。このため、初期のキリスト教徒は1月1日や1月6日、3月27日などにキリストの降誕(誕生を神聖視する表現)を祝しましたが、教会として正式にクリスマスを祝うことはなく、たとえば紀元3世紀の神学者オリゲネスはクリスマスを定めることは異教的であるとすら非難しているくらいです。クリスマスが12月25日に固定され、本格的に基督の誕生が祝われるようになるのは教皇ユリウス1世(在位337〜352年)の時であり、同世紀末にはキリスト教国全体でこの日にクリスマスを祝うようになりました。長い議論の末にクリスマスが12月25日に固定されたのは初期教会の教父たちの体験と英知とによるものであったと言われます。


イエス・キリスト この時期に大きな祭りを行なうことは古い時代の社会の慣習でした。中でも揺籃期のキリスト教会が改宗を願っていたローマ人やゲルマン人の間には、冬至の祭が盛大に行なわれていました。納屋には収穫した穀物がたっぷりと積まれ、牧草の欠乏する冬を控えて環殺した家畜の肉も充分に貯蔵されているこの時、そして、1年の厳しい労働から解放され、何となく心豊かなこの時期、人々はやがて訪れる食糧不足の時をひと時でも忘れて、飲んだり食べたりの盛大な祭りを行ないました。生命の恵みを与える太陽の力を弱め、冬をもたらす自然の怒りを和らげるために、人々は神に生け贄を捧げ、豊作と豊穣を祈って火を焚きました。そして、大方の草木の枯れる時になお緑を保つ常緑樹は永遠の生命の象徴として飾られたのです。
 ユールというゲルマン人の冬至の祭について詳しいことは分かっていませんが、古代ローマ人の冬至の祭については詳細な記録が文学や絵画、彫刻などに残っています。すなわち、12月25日はローマの冬至の当日であったのです。その日は「征服されることなき太陽の誕生日」として、紀元3〜4世紀の古代ローマに普及していたミトラス教の重要な祭日でもありました。さらに12月17日〜24日まではサトゥルナリアと呼ばれる農耕神サトゥルヌスの祭が行なわれていました。この期間、家々には赤々と火が点され、常緑樹が飾られました。贈物が交換され、男たちは女の衣服や獣皮などを纏い、普段は禁止されていた賭け事に興じたりもしたのです。また、主人と奴隷が席を交換するどんちゃん騒ぎなども行なわれたと伝えられます。このようなローマのサトゥルナリアとゲルマンのユールの祭の時期がイエスの降誕を祝うクリスマスとして選ばれたのです。教会は既存の祭日を出来る限り利用することを考えていたからです。特にミトラス教はキリスト教の強敵でした。そんな中、キリスト教と類似点の多いミトラス教との習合を考えたコンスタンティヌス1世は、紀元321年に毎週の休日を「太陽の日 (dies solis=sun day)」と呼ぶことに決めました。クリスマスについても教会の同一の方針を見ることが出来る上、当時キリスト教徒の間にもイエスをこの世の光=太陽と考える習慣があったようで、その証拠に、たとえばミラノ司教アンブロシウスは「我が主イエスの降誕したこの聖なる日を『太陽の誕生日』と呼ぼう」と述べています。

 もっとも、クリスマスがいつごろから祝われたかは不明です。初期の東方教会の人々は公現祭(1月6日)をキリスト受洗の日、その神性顕示の日として祝いました。彼らはアリウス派の人々で、イエスの受洗を重視し、降誕(誕生)そのものには余り意味を認めない人々だったからです。イエスの神性を降誕の時からと考えてこれを信じる正統派のキリスト教徒(ローマを中心とした西方キリスト教=後のローマ・カトリック教会)は彼らを異端と考えるようになりました。325年のニカエア公会議による東方教会に対する異端宣告とほぼ同時期に西方教会がクリスマスを12月25日に定めたのは、自分たちが異端として退けた東方教会との区別を明確にするためでもあった可能性も一部では指摘されています。そんな訳で、ローマでクリスマスが12月25日に祝われたのは336年以前であったことはほぼ確実です。もちろんこの日が決定するまでには様々な意見が出されました。たとえば12月末はイエスの生まれたパレスティナ地方は雨季に当たり、羊飼いは野に出ていませんし、また、この時期に大規模な人口調査が行なわれた(『ルカによる福音書』2:1〜3)という文献もありません。全てこんな風で、学者たちは別の根拠からクリスマスを推定しようとしましたが、何れの見解も充分に説得的なものではありませんでした。こうしてクリスマスは12月25日に固定されました。数世紀の間、異教の慣習はなお強く残り、教会はこれを懸念しながらも、キリスト教の教義と明確に矛盾しない限りこれを根絶することなく、同化及び習合の方針を取ったのです。


イエス・キリストは本当に12月25日に生まれたの?
 イエス・キリストの誕生日に関する記録は残されていないため、イエスの誕生の正確な日付は分かりません。そこで、詳しくは次の項で書きますが、初期の頃は色々な日にイエスの誕生(降誕)を祝ったと言われています。それが次第に12月25日にイエスの誕生を祝うようになり、紀元4世紀に12月25日がイエスの誕生日であることが確立したのです。
 また、ローマでは12月の冬至に太陽を祭るお祝いを盛大に行なっていました。ご存知の通り北半球で一番昼が短くなるのが冬至で、それまで次第に短くなってきた昼がこの日を境にまた長くなってゆくわけですが、要するに勢いの弱まってきた太陽が冬至に再び力を取り戻し、光が甦るということを当時の人々は祝っていたのです。そして紀元273年になると、時のローマ皇帝アウレリアヌスは12月25日を太陽神の誕生日と定めました。それに加えて、キリスト教ではイエス・キリストは「正義の太陽」とか「世の光」と呼ばれていることから、当時の教会はこの祭日を利用して336年にイエス・キリストの誕生を祝う日と定めたと言われています。

クリスマスの変遷

 それでは、古代以降クリスマスは一体どのようにして民衆に浸透していったのでしょうか? 
 本項では、主にイギリスを例として今日に至るクリスマスの歴史的変遷を解説しました。
中世におけるクリスマス

 597年、カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道を開始した時、クリスマスはローマ・カトリック教会の3大祝日のひとつになっていました。そして、アウグスティヌスはその翌年のクリスマスに1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したと言います。ちなみに、約1世紀後にベーダという人は、この日が元々「母たちの夜」と呼ばれ、母なる女神の祝日だったと述べています。人々は改宗してもなお寛大な教会の配慮により異教の祭りを楽しんでいたのです。彼らは常緑樹を飾り、ユールの丸太を燃やし、仮面劇や呪い歌を誦し、踊りに興じました。このようにしてイギリスのクリスマスはユールと降誕節の習合として成立し、アングロ・サクソン暦はこの日から新年を数えることとなりました。そして、この慣習は中世末まで残りました。また、アルフレッド大王はクリスマスから公現祭(1月6日)までを「聖なる期間」と定め、労働を禁じました(王が878年デーン人に一時敗退したのはこのためであると言われています)。また、上記の期間がキリスト教会で正式に聖なる期間と定められたのは567年のトゥールの公会議においてです。また、クリスマスという用語は『アングロ・サクソン年代記』の1043年の項で初めて使用されています。それ以前は冬至祭または降誕を意味する Nativity の語が使用されていました。(※なお、アングロ・サクソン人のキリスト教化はデーン人の侵寇によって遅滞ないし後退しましたが、11世紀のノルマン・コンクエスト〔※ノルマンディー公ギヨームによるイングランドへの征服〕までにはほぼ完成したと言われています。)  
宗教改革以後におけるクリスマス

 ヘンリー8世とエリザベス1世の時代にもクリスマスはイングランド教会(アングリカン・チャーチ=英国国教会・聖公会)の3大祝日のひとつとして祝われていました。当時の文学作品などによると、クリスマスは神に感謝を捧げる時、正真正銘の喜びの時、友人や親戚との旧交を温め、貧しい隣人を歓待する時でありました。この時代は宮廷生活の華やかさに比して地方では貧富の差が激化し、過去の人間関係の絆が破綻し始めた時代でした。その証拠に、「クリスマスには貧しい隣人を歓待するように」という文言が著述家たちによって特に強調されています。また、エリザベス世とジェームズ1世は「故郷の人々を歓待するように」と言って、クリスマスには廷臣たちを帰省させたと言います。そして、地方自治体は貴族やジェントリにこの歓待を義務づけました。特に凶作の年にはそれが地方の治安維持にとって重大な役割を果たしました。たとえば1627年のクリスマスに、イギリスに亡命して来たフランスの新教徒救済のため、ロンドン主教に対して枢密院は主教区全体から寄付金を集めるように命じ、古きよき時代のクリスマス精神を懇請したのです。
ピューリタン革命時代におけるクリスマス

 王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝っていました。しかし、謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し、暴飲暴食やダンス、賭け事、乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃しました。たとえばそれ以前、『諸悪の解剖』(1583念)の著者 P. スタッブズは、劇場や演劇を誹謗し、仮面劇を装って盗みや売黒・殺人などがクリスマスほど横行する時期はないと記しました。17世紀のあるピューリタンは「クリスマスは主イエスの降誕を祝う日ではなく、酒神バッカスの祭りだ。異教徒はこれを見て、イエスは貪食な享楽主義者の大酒飲みで、悪魔の友人と思うだろう」とこれを嘆きました。
 もちろん穏健派はゆきすぎを是正するに留めるつもりでしたし、議会もクリスマスに干渉する気はありませんでした。ところが1644年、スコットランドの長老派教会の圧力によって彼らも態度決定を迫られたのです。長老派は1583年にスコットランドでクリスマスを完全に禁止しました。その後、王の命令によってクリスマスは一時復活しましたが、彼らは再びこれを禁止しました。議会派の指導者たちは長老派のクリスマス禁止の要求をイングランドで実施することを拒んだのですが、それは議会派の支配する地域でのみ効果を収めただけで、ついに議会派も長老派の要求に屈服せざるを得ませんでした。こうして1647年、長老派の圧力の下、議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとしたのですが、この時これに反対する暴動が各地に起こり、強硬な長老派にしても、家庭でのクリスマスをついに認めざるをえなくなったのです。
王政復古(1660)以後におけるクリスマス

 こうしてクリスマスは再び教会の3大祝日のひとつとなり、人々はこれを自由に祝うことが出来るようになりました。しかし、社会経済上の変化はかつて田舎の地主邸で繰り広げられた伝統的クリスマスの相貌を変え、素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れて、次第に宗教心も薄れてゆくことになりました。この変化はゆっくりと、かつ不均等に進行しました。クリスマス休日が制定され、大学・学校・裁判所・議会はクリスマスから公現祭までを休日とし、官公庁はこの期間の数日を、多忙な部署はその一部を休日としました。また、一部の人々は聖燭祭(2月2日)までをクリスマスと考えました。ところが19世紀になると、産業革命の余波を受けて労働条件は極めて過酷となり、クリスマス休日は当日だけとなってしまったのです。もちろんクリスマスは富裕な家庭では華やかに祝われたのですが、一般にはこれを祝う費用のない人々が増大し、クリスマスはいよいよ死滅するかに見えました。
ビクトリア時代におけるクリスマス

 そんな中、19世紀中葉にクリスマスが復活しました。それはチャーチスト運動の時代であり、大英帝国の威光が最も拡大された時期でした。新しいクリスマスでは隣人愛と慈善が重視され、宗教心の復活による宗教的側面の補正が行なわれ、その上に古い時代の賑やかな祭りの慣習が輝きを添えたのです。特にクリスマスが子どもを中心とする家族の祭りとなったことがこの時代の特徴であると言えます。クリスマス・ツリーやサンタクロース、クリスマス・カードが導入され、クリスマス・キャロルが復活し、クリスマス・プレゼントやクリスマス・ディナーが庶民の家庭に進出しました。今日見るクリスマスはこの時から始まったと言ってよいでしょう。
 新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公と C・ ディケンズです。アルバート公はドイツからクリスマス・ツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスに持込み、ディケンズは『クリスマス・キャロル』を始め幾つかの文学作品を刊行し、クリスマスの楽しさや陽気さを伝えると同時に、クリスマスのあるべき姿、物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えました。新しいクリスマスは急速に浸透し、空論家や反対論者もこれを認めざるを得なくなり、非国教徒も子どもたちが友人仲間の楽しみの輪に入るのを阻止することが出来なくなりました。たとえば彼らの礼拝堂の一部は、自分たちの会員が国教会に流れ始めたのを見てクリスマス礼拝を開始したくらいです。こうして非国教徒の態度も軟化し,イギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになった。こうした趨勢に応じて、短縮されていたクリスマス休日もボクシング・デー(※BoxingDay=クリスマスの翌日で、この日に使用人や郵便配達人などに祝儀の贈物を与える)まで延長されるようになりました。それは銀行や官庁のみならず、19世紀末までには一般の商工業従事者にも拡大されました。こうして、根治に見るような形の「みんなで祝う楽しいクリスマス」が成立したのです。
日本におけるクリスマス
クリスマス商戦
 日本におけるクリスマスの風習は明治以降に広まります。
 教会や在日外国人の手を離れ、初めて日本人によってクリスマスが祝われるのは1875年頃のことで、原胤昭が設立した銀座の原女学校においてであったと言われています。明治10年代には丸善がクリスマス用品を輸入し、この頃から大正期にかけてクリスマスは次第に一般家庭でも祝われるようになってゆきます。また、クリスマスの語は俳句の季題にも取り入れられ、たとえば正岡子規にも《クリスマスの小き会堂のあはれなる》の句があります。こうしてクリスマスの風習は日本人の生活に定着してゆきますが、宗教的側面が次第に軽んじられ、商店の歳末売出しに利用される傾向も強まってゆくことになります。
参考1:クリスマスについての参考図書


◆参考図書1:クリスマスについての参考図書
O.クルマン『クリスマスの起源』教文館
O.クルマン・著(新約聖書学者)
土岐健治+湯川郁子・訳
『クリスマスの起源』
教文館・06年11月刊、1,575円
紀元3世紀まで12月25日はクリスマスではなかった。何故12月25日がクリスマスになったのか? キリストは何月何日に生まれたのか? クリスマスツリーを飾るのは何故か? クリスマスツリーの本当の起源は? ……数々の疑問に分かりやすく答える。
若林ひとみ『クリスマスの文化史』白水社
若林 ひとみ・著(クリスマス研究家、フリーライター)
『クリスマスの文化史(新装版)』
白水社・10年11月刊、2,100円
サンタクロースって誰なの? クリスマスツリーは何故飾るようになったの? 多数の図版と共にその由来を説き明し、本場ドイツのクリスマスを中心に紹介します。


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【2】サンタクロースの起源とその特徴

 クリスマスと言えばサンタクロースと相場が決まっています。では、そのサンタさんにモデルとなる人物がいたことをご存知でしょうか? 
 本節では、サンタクロースの起源や特徴を簡単に取り上げ、解説しました。
サンタクロースの起源

 クリスマス・イヴの夜に、良い子の許へこっそり現われてプレゼントを置いてゆくサンタクロース。その起源は紀元4世紀頃まで遡り、リキュア(現在のトルコ辺り)のミラという町に生まれた聖ニコラウス(ミラのニコラオス)の伝説がもとになっています。キリスト教の司祭で神学者でもあったニコラウスは、貧しい人や子どもたちを助けたことで多くの人に慕われ、後に聖人とされて、聖ニコラス(ミラのニコラオス、Saint Nicholas)のと呼ばれるようになり、子どもや学問、海運などの守護聖人としても崇敬されるようになりました。

 ある日のこと、ニコラウスは、町に貧しくて娘をお嫁に出すことが出来ない家があるのことを知りました。そこで彼は、真夜中にこっそりとその家を訪れて、煙突から金貨を投げ入れます。このとき暖炉のそばには靴下が下げられていて、金貨はちょうどその靴下の中に入りました。そして、その金貨のお陰で娘は身売りから逃れ、無事お嫁に行くことが出来たのです。後にこの逸話が世界中に広まって、「サンタクロースは真夜中に煙突から入って来て、靴下にプレゼントを入れてゆく」というお馴染みのサンタクロース像が出来上がりました。ちなみに、サンタクロースの赤い衣装も聖ニコラウスの着ていた司祭服が下になっていると言われます。
 なお、聖ニコラスはカトリック教会によってクリスマスのお祝いと結び付けられるようになってゆくのですが、まずそれはオランダで続き、17世紀になってオランダ人がニューアムステルダム(今のニューヨーク)を建設した際、その伝統もいっしょにアメリカに渡りました。オランダ語でSinterklaasと呼ばれていたのが英語的な発音に直されて、Santa Claus、すなわちサンタクロースとなったのです。そして19世紀に入ると、サンタクロースが夢物語に仕立てられ、トナカイのソリに乗ってやって来て、煙突から入って来る、といったイメージがつけられました。もっとも、「サンタクロースは子どもたちに夢を与えるから」とはいうものの、今ではイエス・キリストではなくサンタクロースがクリスマスの主役となり、さらにクリスマス商戦に利用されている実情です。こうして、本来のクリスマスの意味が失われてゆくのは、真面目なクリスチャンにとっては非常に残念なことでしょう。
サンタクロースの衣装

サンタクロース 初めて赤い服のサンタクロースが登場したのは1849年のことです。それは、米国の大学教授クレメント・C・ムーアの詩「クリスマスのまえのばん」 (A Visit from St. Nicholas) の挿絵で、描いたのはテオドア・C・ボイドという人でした。また1862年には、同じ詩に触発されたトーマス・ナストという風刺漫画家が「ハーパーズ・ウィークリー」等でサンタクロースのイラストを描き、それが「赤い衣装に白髭の太ったニコニコ顔のお爺さん」という現代のサンタクロース像の元になったと言われています。また、現在お馴染みのサンタクロース像が日本で定着したのは1900年代初頭のことで、子供雑誌にイラストが掲載されるようになったからだと言われます。
 なお、サンタクロースの衣装の元になったのは、キリスト教の司祭服だと言われています。それも当然の話で、サンタクロース像の元になった聖ニコラウスがキリスト教の司祭だったからです。ちなみに、司祭服の色は季節や祝日によって変わり、カトリック教会では赤の衣装はイエスの受難日や聖人のための祝日に、正教会では十字架に関連する祭や致命者の記憶日、復活大祭の祭期に着用するとされています。
参考2:コカ・コーラとサンタクロースの関係

 一説には、誰もが知っているあのサンタクロース像は実はコカ・コーラの広告から生まれたと言われています。その説によると、コカ・コーラ社のコーポレート・カラーはサンタクロースの衣装と同じ赤と白であり、サンタクロースの衣装はコカ・コーラの広告に由来するというのです。詳しくその説を紹介すると、――
 コカ・コーラの広告にサンタクロースが最初に登場したのは1930年頃のことで、それまでのサンタクロースは緑の服を着ていたり妖精の姿をしていたりして、必ずしも特定のイメージを持っていませんでした。そこでコカ・コーラ社の広告担当者が描いたのが、赤と白(コカ・コーラの色)の衣装を着て、白髭に笑顔を浮かべたお爺さんでした。コカ・コーラ社は長年に渡ってこのサンタクロースを広告に登場させ、コーラの人気と共に「赤い服のサンタクロース像」を世界中に定着させた、
 というのです。

 しかしながら、信憑性がありそうに見えながら、この説は俗説です。その証拠に、米国コカ・コーラ社の広告にサンタクロースが初めて採用されたのは1931年のことで、しかもこの時には遠く離れた日本ですらサンタクロースのあのお馴染みの姿が既に確立されて十数年が経過していたからです。なお、日本での最初のコカ・コーラ輸入は1914年頃でしたが、間もなく販売中止となり、再度上陸したのは戦後の1949年になってからです。従ってコカ・コーラを手にしたサンタクロースが日本で紹介されたのは1949年以降の戦後のことなのです。
参考3:サンタクロースは実在する!?〜今年もサンタクロース追跡大作戦開始!〜


サンタ追跡!?〜サンタカメラの映像 - NORAD -
 2010年12月24日、サンタクロースが世界中の子どもたちにプレゼントを配るため、北極を出発します。サンタさんを乗せたトナカイのソリは新幹線の100倍とも言われる超高速で飛び回わっています。その姿はとても肉眼で確認することは出来ませんが、クリスマス・イヴにだけ世界中に設置されるNORADのサンタカメラなら、サンタさんとトナカイの姿をしっかりと捉えることが出来るかも知れません。
 クリスマス・イヴの当日、公式サイト「NORAD Tracks Santa」【http://www.noradsanta.org/jp/home.html】では、現在のサンタクロースの位置とサンタカメラが捉えた動画を見ることが出来ます。
http://www.noradsanta.org/ja/

サンタクロース追跡作戦 - AstroArts
http://www.astroarts.co.jp/news/1999/12/991210santa/index-j.shtml
サンタ追跡サイト「NORAD Santa Tracker」12/1カウントダウン開始
http://cotoha.jp/2010/11/norad-santa-tracker-2010-coming.html

参考4:サンタクロースについての参考図書


◆参考図書2:サンタクロースについての参考図書
パラダイス山元『サンタクロース公式ブック クリスマスの正しい過ごし方』小学館
パラダイス山元・著&監修(公認サンタクロース)
『サンタクロース公式ブック〜クリスマスの正しい過ごし方〜』
小学館・07年10月刊、1,500円
本物のサンタさんが正しいクリスマスを紹介。グリーンランド国際サンタクロース協会が認定したアジア地域初のただ1人の日本人サンタクロースがお届けするクリスマス・アドバイス・ブック。如何に家庭で心豊かなクリスマスを過ごすか、そのアイデアを紹介します。
クリスマスの絵本『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社
フランシス=P=チャーチ・著
中村妙子・訳、東逸子・画
クリスマスの絵本『サンタクロースっているんでしょうか?』
偕成社・1986年10月刊、840円
サンタクロースっているんでしょうか? そんな質問にピタリと答えた人がいます。今から90年ほど前のアメリカのニューヨーク・サンという新聞に出た社説です。この本はその社説を訳したものです。さあ、サンタクロースって本当にいるんでしょうか? 


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【3】クリスマス・シンボルの意味とその由来

 クリスマス・ツリーに代表される様々なクリスマス・シンボルにはキリスト教以前からの習俗も含まれています。ヨーロッパがキリスト教化するに従って、それら古代からの習俗を長い歴史の中でキリスト教のものとして習合していったのです。
 本節では、そのようなクリスマス・シンボルの意味や由来について、以下で紹介・解説します。
クリスマス・シンボルとは? 

 上でも解説したように、クリスマスの時期は、キリスト教が広まる以前のヨーロッパにおいては冬至を祝う時でした。また、寒い季節にあって生き生きとした色をつけている常緑樹は強い生命の象徴とされていました。キリスト教が次第にヨーロッパ全土に伝わってゆくにつれて、クリスチャンはそのような地元の習慣の幾つかをキリスト教的な意味合いをこめて取り入れてゆきました。本来の意味を知りつつ様々なクリスマス・シンボルを見るならば、クリスマスもきっと今までとは違った輝きを持つことでしょう。


クリスマス・カラーの緑や赤にはどんな意味があるのか?
 緑の代表と言えばクリスマスツリーに使われる常緑樹です。常緑すなわち強い生命力を持って1年中葉を茂らせる緑の姿は永遠を表わし、転じて神の永遠の愛やイエス・キリストが与える永遠の命を象徴しています。一方の赤は、イエス・キリストが私達に永遠の命を与えるために十字架に掛って死にましたが、その際に流した血を表わしているのです。

クリスマス・ツリーとその由来

クリスマスツリー クリスマス・ツリーは、モミの木などの針葉樹に灯や金銀の飾りを付けたものを言います。クリスマス・ツリーに使われる木の代表はモミの木で、他には松や柊、月桂樹なども使います。常緑樹は春に訪れる生命のシンボルで、特にモミの木(※マツ科の常緑針葉樹)の枝は十字架のように広がっているので「聖なる緑の木」とされているのです。また、松(※マツ科の常緑高木)は世界各国で不老長寿や節操、多産の象徴として尊ばれ、クリスマスの装飾にも用いられています。なお、クリスマス・ツリーには必ず常緑樹を使うわけです、この常緑すなわち強い生命力を持って一年中葉を茂らせる緑の姿は永遠を現わし、さらに神の永遠の愛やイエス・キリストが与える永遠の命を象徴しているのです。


 クリスマス・ツリーは、クリスマスの風習としてキリスト教世界を始め世界中に広がっています。このように、クリスマスになるとあちこちで見かけるクリスマス・ツリーですが、その起源はヨーロッパでも決して古いものではありません。
 その由来はまず8世紀のドイツ文化圏にまで遡ると言われています。当時のドイツには、ドルイド教団員(※キリスト教に改宗する以前の古代ケルト族の僧・妖術師・詩人・裁判官など)と呼ばれる人たちがいて、彼らはオーク(木)を崇拝し、幼児犠牲を捧げていました。伝説によると、イングランドからの伝道者であるボニファティウスがそれを止めようとしてオークを切り倒した時に一本のモミの若木に関わる奇跡が起こったため、それを記念するために、ドイツではモミの木をクリスマスに植えるようになったと言われています。なお、現在確実に知られる最も古い例は16世紀初めの L.クラーナハ(父)の銅版画に描かれたものを嚆矢とします。また、クリスマス・イブ礼拝の帰り道に森の中で常緑樹の枝の合間に眩く輝く無数の星を見た宗教改革者のマルチン・ルターがその美しさに打たれ、それを子どもたちのために再現しようとして家の中に木を持ち込み、火を灯したロウソクを枝に括り付けたとも伝えられており、それがクリスマス・ツリーの起源となったとも伝えられています。なお、1605年のアルザス地方の旅行記には、シュトラスブルク(現ストラスブール)ではクリスマスに色紙で作ったバラの花やリンゴや砂糖などを飾った木を立てると記されています。このような伝説を背景に、ドイツではクリスマス・ツリーが一般的となり、次第に色々なオーナメントが飾り付けられるようになっていったのです。
 元々クリスマス・ツリーは元来クリスマスの日から公現祭(1月6日)まで飾られ、公現祭の日に初めて菓子や飾りを取るという慣習から見て、元々は新年を迎える行事であったと考えられています。ドイツ各地では古くから冬至や新年に生命力の象徴である常緑樹の枝を窓や天井に飾りつける風習があり、また、ツリーに飾られる食物や灯にも豊饒の願いや悪魔祓いの意味がありました。要するにクリスマス・ツリーは、キリスト教とゲルマン古来の新年や収穫祭(ユール祭)の行事が結びついて生まれたものと言えるわけです。かくして、クリスマス・ツリーは17世紀中頃にはドイツの宮廷の習慣として取り入れられ、19世紀に入ると、富裕な市民の家庭からやがて一般にも広まってゆくことになります。

 クリスマスツリーの習慣は、ドイツからの移民たちによって19世紀初頭にアメリカへ伝えられました。また、イギリスにはハノーバー家を通じて伝えられ、ビクトリア朝時代に一般化したと言われています。イギリスでは1841年、ビクトリア女王の夫君であるアルバート公がウィンザー宮でクリスマス・ツリーを飾り付けたのが嚆矢とされます。また、日本でも明治以降、クリスマスの風習と共にクリスマス・ツリーは急速に一般家庭にも広まってゆきました。
クリスマスの音楽

 キリスト教の聖節としてのクリスマスは1年間の教会暦を通じて最も豊かな音楽に装われる時期でもあります。民衆的なクリスマスの音楽は、古くからキャロル (carol=英米の呼び方。フランスではノエル、ドイツではクリスマスのリートと呼びます)として親まれています。北欧諸国ではクリスマスの音楽は主として室内の催しですが、南欧諸国では屋外に遠舎の聖母子像を表わす祭壇を設け、その祭壇に向かって音楽を捧げる風習が古くからありました。その証拠に、南イタリアから起こった抒情的な牧笛の音楽シチリアーノ(6/8または12/8拍子の舞曲)はその典型的な例で、バロック時代を通じて作曲された数多くのクリスマス協奏曲(コレリ、トレリ、マンフレディーニ等)には決まってシチリアーノの楽章が含まれています。ヘンデルの「メサイア」の降誕の場面に現れるピファ(パストラル・シンフォニー)もその一例です。またフランスでは、ノエルの旋律によるミサ曲やオルガン変奏曲等も数多く作曲されました。

 教会内部での聖節としてのクリスマスの儀式は、12月24日の夕べの礼拝(晩課)から始まります。そこで音楽的に重要な役割を果たすのはマニフィカトで、パレストリーナやバッハに名作があります。カトリックの教会では、12月25日の午前零時から第1ミサ(深夜ミサ)、第2ミサ(早朝のミサ)、第3ミサ(日中のミサ)と3つのミサが挙げられますが、これらのミサはグレゴリオ聖歌で歌われることもありますが、特に深夜ミサはキャロルやノエルの旋律をちりばめて民衆的な喜びの裡に執行されることが多いです。一方プロテスタントの教会でも、深夜の礼拝の他、クリスマスのシーズンを通じて特別に作曲された作品や賛美歌、オルガン曲が演奏されます。特に有名なのは、壮大な規模を持つバッハの「クリスマス・オラトリオ」です。
 クリスマスの音楽にはルネサンスや中世にまで遡る古曲が多く存在しますが、比較的新しい作品で全世界に愛唱されているのは19世紀のグルーバー(1787-1863)作曲の「きよしこの夜」です。また、アメリカや日本では「ジングル・ベル」や「ホワイト・クリスマス」などが広く親しまれています。さらに20世紀の芸術的な楽曲としては、イギリスのブリテンによる「キャロルの祭典」や、アメリカのメノッティによるオペラ「アマールと夜の訪問者」なども挙げられます。            
クリスマス・キャロル

 クリスマスの時期に歌われる宗教的な民謡を総称してクリスマス・キャロル(Christmas carol)と表現します。ただし、キャロルは英語の呼び方で、フランスではノエル、ドイツではクリスマスのリート、スペインではビリャンシーコなどと呼ばれています。どの国の場合も親しみやすく明るい調子の曲が多い傾向があります。歌詞のイメージは一般に素朴ながら新鮮で、民衆のクリスマスに寄せる喜びが巧まぬ修辞で率直に歌い上げられているのが特徴です。フランスのノエル「ヨセフは良き嫁を娶りぬ」に見られる日常的庶民的な発想や、ドイツのクリスマスのリート「バラが咲いた」(日本基督教団賛美歌96番「エサイの根より」)に見られる、イエスの降誕を冬の真夜中に花開く一輪のバラに譬えたイメージの鮮烈さなどをその例として挙げることができます。

 キャロルの語源は中世フランスの輪舞カロルであるとされています。14〜15世紀イギリスのキャロルには、輪舞の際の歌唱形式に相応しく折返し句が1句毎に反復される形がよく見られ、ラテン語と俗語(方言)が入り混じっているのが特徴です。また、ラテン語と俗語の混交は古いドイツのクリスマスのリートにもしばしば見られます。なおノエルやビリャンシーコでは、ノエ・ノエという言葉が明るい歓喜の表情で繰り返されることも多いです。
 キャロルは中世から18世紀にかけて数多く作られ出版されると同時に、優れたキャロルは教会公用の賛美歌の中に採り入れられてゆきました。たとえばルター派ドイツ福音主義教会のクリスマスのコラールの大半は民衆的なリートに起源を持つものですし、日本基督教団賛美歌集の降誕の部にはイギリスやフランス、ドイツ、ボヘミアなどのクリスマス・キャロルの多数の例が含まれています。


◆参考図書:クリスマス・キャロル(小説)
 イギリスの作家ディケンズの中編小説に『クリスマス・キャロル』と題するものがあります(翻訳によっては『クリスマス・カロル』となっているものも多く存在します)。これは1843年のクリスマスに合わせて発表されたもので、発表以後今日に至るまで圧倒的な人気がある作品です。そのストーリーは、けちん坊の老人スクルージがクリスマスの前夜に幽霊の訪問を受けて自分の過ちを教えられ、回心して温かい心の持ち主になるという物語です。個人が同胞に対して善意を抱くことこそ社会改革の基本であるというディケンズの信念を示した作品で、ディケンズ=クリスマス精神という一般的評価を確立するのに貢献したと言われます。
ディケンズ『クリスマス・キャロル(新訳)』光文社古典新訳文庫
ディケンズ・著/池 央耿・訳
『クリスマス・キャロル』(新訳)
光文社古典新訳文庫KAテ1‐1、
光文社・06年11月刊、440円
ディケンズ『クリスマス・カロル(改装版)』新潮文庫
ディケンズ・著/村岡 花子・訳
『クリスマス・カロル』(改装版)
新潮文庫(改装版)、
新潮社・初版1952年11月刊、300円

映画『Disney'sクリスマス・キャロル』 - シネマトゥデイ
映画『クリスマス・キャロル』
http://www.cinematoday.jp/movie/T0007621

その他のクリスマス・シンボル


柊(ヒイラギ)
 柊(ヒイラギ)はモチノキ科の常緑高木で、北欧では森の中の全ての木の中でヒイラギは最も高貴な木とされています。イエス・キリストは十字架につけられる前に茨の冠を被らされましたが、刺のようなヒイラギの葉はその茨の冠を象徴しています。また、ヒイラギの赤い実は私たちの救いのためにイエス・キリストが流した血を、緑の葉は永遠の命を表わしています。要するにヒイラギの葉はキリストの茨の冠すなわち受難を表わし、赤い実はキリストの血を表わすものとしてクリスマスに飾られるようになったのです。なお、クリスマスに教会で飾られたヒイラギを家に飾ると、その部屋は翌年中幸せになると言われています。
クリスマスライト(イルミネーション)
 クリスマスツリーに使われていたロウソクは火事のもとにもなるため大変危険なものでした。そのため、大昔は居間には水を張ったバケツが置かれていたそうです。ある時、それは19世紀の終わり頃のことですが、アメリカの電話会社の職員が電話の交換機に使われる電球を見ていてクリスマス・ライトのアイディアを得たと言います。安全で手軽に使えることから、クリスマス・ライトはロウソクに代わって次第に普及して行ったのだそうです。そんな訳で、このライトは元々はロウソクであり、それは空に輝く星を表わしているのです。
クリスマスツリーのトップスター(星)
 クリスマスツリーのてっぺんには一際大きな星が飾られています。これは東方の三博士(賢者または占星学者)たちを幼子イエスも許へと導いた星を表わしています。この博士たちは、東方で不思議な星を見て、それが救い主(メシア)の到来を告げるものであるということを悟りました。この星は、これら三人の博士たちを遠くユダヤの地(現在のイスラエル)にあるベツレヘムという町にいた幼子イエスとその両親の許へと導いたのです。
クリスマス・キャンドル(ロウソク)
 クリスマスにはよくキャンドルが使われます。様々な色形があり、また、香り入りのものもあります。キリスト教信者たちの間では、イエス・キリストは「世を照らす光」と呼ばれており、それを表わすのがこのキャンドルなのです。
ベル(鐘)
 クリスマス・ベルの喜ばしい音は、救い主であるイエス・キリストの誕生を告げ知らせるものです。
靴下
 先にもサンタクロースの起源について解説した箇所で触れましたが、サンタクロースのモデルと言われる聖ニコラスという聖人の逸話として、「昔、聖ニコラスはがある貧しい3人の娘たちに金貨を贈ったが、その金貨を入れた巾着は煙突から投げ込まれ、ちょうど暖炉で乾かしていた靴下の中に入った」という言い伝えがあるのです。このため、今では靴下を吊るしてサンタクロースを待つようになったのだそうです。
七面鳥
 絵本などに出てくるクリスマスの食卓には必ずと言ってよいほど七面鳥の丸焼きが描かれていますが、このクリスマスに七面鳥を食べる習慣はアメリカからヨーロッパへ逆輸入されたものだと言われています。1620年にイギリスからアメリカへ移り住んだピューリタン(清教徒)が初めての収穫祭に野生の七面鳥を食べたことがヨーロッパへ伝わり、クリスマスのメニューとして定着していったのだそうです。
キャンディー・ケーン(杖の形をしたキャンディ)
 キャンディー・ケーンとは、クリスマスツリーのオーナメントなどでよく見かける杖の形をしたキャンディのことです。キャンディーの白色は純潔さを、赤い線は十字架で流した血の色を、緑の線はイエスが「神様から人類への贈物」であることを表わしています。

 18世紀後半頃ドイツのクリスマスでは羊飼いの杖の形に曲げた白いキャンディーが食べられていましたが、これを20世紀初頭にアメリカのインディアナ州のキャンディー製造業者がイエス・キリストをイメージして現在のような形にしたのがキャンディー・ケーンの始まりだと言われています。
 キリスト教の聖典である新約聖書では、私たちは羊、イエスはよい羊飼いに譬えられています。そこで、このキャンディーは羊飼いの杖の形に作られました。また、キャンディーを逆さまにしてみるとアルファベットのJになり、これはイエス(Jesus)の頭文字を意味しています。始めはイエスの清らかさを表わすために真っ白のキャンディーが作られましたが、後から4本の赤いストライプが入りました。そのストライプのうち、3本は十字架につけられる前にローマの兵士に鞭打たれた時の傷を、残りの太い1本はイエスが十字架で流した血を表わしているとされます。なお、イエスは神様が人類に与えた贈り物であるということを私たちに思い起こさせるために緑のストライプが入れられる時もあります。さらに、このキャンディの硬さは、私たちの人生を堅く守ってくれる岩であるイエスを、また、岩のように堅い信仰を表わしています。
ジンジャー・クッキー
 ジンジャー・クッキーはクリスマスを代表するお菓子で、中には豚の形を象ったものがあります。北欧ではクリスマスに豚を食べる習慣があるのですが、昔、貧しい家庭では本物の豚を食べることが出来なかったので、その代わりに豚の形のパンを食べたと言われます。豚の形のクッキーはこの名残なのです。
林檎
 昔の人にとって林檎は貯蔵が可能な数少ない食べ物で、まさに自然からの贈り物だったため、幸福や生きる喜びをもたらす果物として尊ばれてきました。その証拠に、ドイツでは聖なる木に貴重な林檎を吊るして神の愛を讃えたり、北欧の冬の祭りでは常緑樹に吊るして神への捧げ物としていたのです。
 北欧の農家では、豊作祈願のお守りとして飾ったり捧げ物として麦が使われていました。そのため、今でもクリスマスリースなどで麦がよく用いられています。
葡萄
 ブドウ科蔦性落葉低木である葡萄はイエス・キリストを象徴する果実で、クリスマス・リースには麦の穂に次いでよく使われています。
牛乳
 昔、フィンランドなど北欧の国々では牛乳はクリスマスの飲み物でもあったそうです。寒い冬の間は牛たちにも十分な餌を与えることが出来ず、牛の乳は殆ど出なかったのですが、「せめてクリスマスの時だけでも」と村中から集めた牛乳を子どもたちに分け与えたのだそうです。

参考5:クリスマス関連情報


クリスマスのレシピ | ホームクッキング - キッコーマン
http://www.kikkoman.co.jp/homecook/college/saiji/christmas/


毎年恒例!宮ヶ瀬湖クリスマスツリー
宮が瀬湖クリスマスツリー
http://www.date-navi.com/xmas/miyagase.html

クリスマス特集2010 - Yahoo! JAPAN
http://xmas.yahoo.co.jp/


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