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今月のワンポイントアドバイス

 2月よりロシアのソチで冬季オリンピックが開催されます。

 また、2020年には念願の東京でのオリンピック開催が決定されました。

 今回は、古代オリンピックと近代オリンピック、そして日本で過去開催されたオリンピックを振り返りながら、オリンピックとは何かを解説しました。


オリンピック
【1】オリンピックとは?〜オリンピック精神とその課題〜
【2】オリンピックの歴史〜古代オリンピックと近代オリンピック〜
【3】オリンピックと日本


【1】オリンピックとは?〜オリンピック精神とその課題〜

 オリンピックとは何か。近代オリンピックの精神と現状について簡単に解説しました。 
オリンピックの精神


オリンピックとは
 オリンピックは4年に1度開催される世界的なスポーツの祭典です。スポーツを通した人間育成と世界平和を究極の目的とし、夏季大会と冬季大会を行なっています。2012年にはロンドンで記念すべき第30回オリンピック競技大会が開催され、世界204の国・地域から選手が参加し26競技302種目が実施されました。
 クーベルタンが唱えたオリンピズム、すなわちオリンピックの精神とは、「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍など様々な違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって平和でよりよい世界の実現に貢献すること」です。この理想は今も変わらず受け継がれ、彼は「近代オリンピックの父」と呼ばれています。近年では従来のテーマであるスポーツと文化に環境が加わり、オリンピックは世界中の人々が地球環境について考える機会にもなりました。アスリート達が生み出す興奮と感動、そして環境保護への取り組みが、きっと世界中の人をより強く固く結んでゆくことでしょう。

オリンピックの精神
 第4回ロンドンオリンピック(1908)の陸上競技では、アメリカとイギリスとの対立が絶え間なく起こり、両国民の感情のもつれは収拾できないほどに悪化していました。その時に行なわれた教会のミサで、《このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することであろう》というメッセージが語られました。このメッセージを当時のIOC会長のクーベルタンが取り上げ、《勝つことではなく、参加することに意義があるとは至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある》と、このように述べたそうです。
 オリンピックには、もちろん《より速く、より高く、より強く》という言葉もありますから、《参加することに意義がある》という言葉は、弱くてもよい、負けてもよいという意味では決してありません。ただし、ドーピングをしようが何をしようが、とにかくどんな手段を用いても、ただ勝てばよいのだということでもありません。オリンピックに限らず、スポーツマンシップとは、その競技会に参加し、ひたすら純粋に勝つために正しく努力することにこそ意義があるということです。

オリンピックムーブメント

 オリンピック・ムーブメントとは、国際オリンピック委員会(IOC)の統括の下、オリンピックの精神(オリンピズム)に従って、スポーツ通じて平和でよりよい世界の実現を目指す活動です。この活動は世界中で行なわれており、オリンピックの五輪のマークがそのシンボルとされています。IOCは《オリンピック憲章に従い、オリンピズム(オリンピックの精神)を普及させる》という大切な役割を担っています。IOCは205の国と地域を承認しており、夏季及び冬季のオリンピック競技大会を主催しています。


主要な機関
 オリンピック・ムーブメントは様々な個人・団体によって進められています。国内オリンピック委員会(NOC)と国際競技連盟(IF)もそのひとつです。NOCはオリンピック競技大会時に選手団を派遣する母体となります。日本では日本オリンピック委員会(JOC)がこれに当たります。もう一方のIFは各競技を統括する国際団体で、オリンピック競技では各競技の運営に関して全ての権限を保有しています。また、国際オリンピック・アカデミー(IOA)と国内オリンピックアカデミー(NOA)では、それぞれオリンピズムに沿った教育と普及活動が展開されています。

オリンピック・ムーブメントの活動
 オリンピック・ムーブメントの代表的な活動として、ドーピングの撲滅や女性の参画、経済支援などが挙げられます。筋肉増強剤などの禁止薬物を使用し、競技力の向上を図るドーピングは不正行為であるだけでなく、身体への影響も大きいため、IOCが中心となって1999年に世界アンチドーピング機構を設立し、撲滅運動を推進しています。たとえばオリンピックについて、古代から第1回アテネ大会まで女性の参加は認められていませんでしたが、IOCの女性達、ワーキンググループによる長年の活動によって、今では多くの女性が参加できるようになりました。また、ソリダリティと呼ばれる経済支援は、経済的に恵まれない国及び地域の選手やコーチに対してIOCなどが中心となって資金提供を行なうもので、奨学金制度やスポーツ施設を整備することによって国及び地域の区別なく専門知識を伸ばし、技術水準を向上できるようサポートしています。さらに身体障害者を対象とした世界最高峰のスポーツ競技大会であるパラリンピックもオリンピック・ムーブメントのひとつで、オリンピックの直後に同じ場所で開催され、競技レベルも急激に上昇しています。このようにオリンピック・ムーブメントとよばれる活動は様々な組織や人々によって日夜続けられているのです。

オリンピックとその課題


オリンピックと政治
 オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って、オリンピックは政治に左右されるようになってゆきました。たとえば1968年のメキシコ大会ではオリンピックは黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きてしまいました(ミュンヘンオリンピック事件)。また、1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカ諸国22ヶ国がボイコットを行なう事態を招きました。そして1980年のモスクワ大会では、ソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行ない、それに対して1984年ロサンゼルス大会では、今度は東ヨーロッパ諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはルーマニアだけという有様でした。

商業主義とプロ化〜大会の継続的運営と商業主義〜
 オリンピックは巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後、夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続きました。それに対して1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、オリンピックをショービジネス化したとされます。すなわち、大会の大規模化と共に開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となっていたわけですが、ピーター・ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって地元の財政的負担を軽減し、オリンピック大会の開催を継続することが可能になりました。その結果2億1500万ドルもの黒字を計上しました。それを契機として、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになったのです。すなわち、スポンサーを一業種一社に絞ることによりスポンサー料を吊り上げ、聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのです。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まって立候補都市が激増、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになりました。そのため、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入される様になってゆくのです。そして、その流れはプロ選手の参加を促し、1992年のバルセロナ大会ではバスケットボール種目でアメリカのNBA所属の選手によるドリームチームが結成され、大きな話題となりました。元々オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来ましたが、旧共産圏(ソビエト連邦やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会でオリンピック憲章からアマチュア条項を削除することになりました。さらに観客や視聴者の期待にも応える形でプロ選手の参加が段階的に解禁されるようになってゆきました。当初はテニスなど限られてましたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大されてゆきます。なお、現在のIOCの収入構造は、47%が世界各国での放送権料で、45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%が五輪マークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国五輪委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保しています。

 1989年12月のマルタ会談をもって冷戦が終結してからオリンピックの政治的な色合いは薄くなってステート・アマも殆どがその姿を消しましたが、しかしその反面、ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で不正に関与する人物及び組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになってゆきました。また、1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われ、また、かつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供されたことなどが問題になりました。さらには年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向がありましたが、ジャック・ロゲの代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになりました。


◆参考図書1
小川勝『オリンピックと商業主義』集英社新書
小川勝・著
『オリンピックと商業主義』
集英社新書0645、集英社・2012年06月刊、777円
オリンピックをテレビ観戦していると、他のスポーツイベントとは「風景」が違うことに気づく。それは「会場に広告看板がない」からだ。クーベルタンが理想を掲げて創始した近代オリンピックの「格式」は、そのような形で今も守られている。だが舞台裏では、莫大な放映権料やスポンサー料がIOCの懐を潤し、競技自体にまで影響を及ぼすという実態がある。一方で、その資金のおかげで税金の投入が回避され、途上国の選手が参加できるという現実もある。果たして、オリンピックが「商業主義」を実践するのは是なのか非なのか。本書は、五輪礼賛でも金権批判でもないスタンスで、この問題を深く掘り下げる。

猪谷千春・著
『IOC オリンピックを動かす巨大組織』
新潮社・2013年02月刊、1,470円
五輪開催地はいかに決まるのか?東京招致の鍵は?世界最大の祭典を操る組織の全貌を、30年にわたり委員を務めた著者が明かす。

JOC - オリンピックの歴史
http://www.joc.or.jp/column/olympic/history/
時事ドットコム:近代オリンピックとその時代
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20091002olympic_games_history&rel=j&g=phl

応援しよう!ソチ・オリンピック






 2014年2月6日(土)〜23日(日)の会期で、“Hot. Cool. Yours.”(ホット、クール、みんなの大会)のテーマの下に、第22回冬季オリンピックがロシアのソチで開催されます。なお、パラリンピックは、3月7日(金)から16日(日)までの会期で同地にて開催の予定です。

 アスリート達の熱い戦いが始まります。さあ、みんなで選手達の活躍を応援しましょう。
ソチオリンピック

ソチオリンピック2014 - JOC
http://www.joc.or.jp/games/olympic/sochi/
2014年 ロシア・ソチオリンピック 大会競技日程
http://ouenbu.com/olympic/sochi-nittei.html
NHK 全力応援!ソチオリンピック
http://olympic.nhk.or.jp/


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【2】オリンピックの歴史〜古代オリンピックと近代オリンピック〜

 古代ギリシア・ローマ世界で行なわれた古代オリンピックとその精神を現代に復活させた近代オリンピック。本節では、その両者のオリンピックの歴史を振り返ってみました。
古代オリンピックとその歴史

 オリンピックの歴史は今から約2300年前に遡ります。古代ギリシャのオリンピア地方で行なわれていたオリンピア祭典競技がそれです。起源には諸説ありますが、元々は神々を崇める体育や芸術の競技祭だったとされています。しかし、その後数々の戦乱に巻き込まれた古代オリンピックは393年を最後に幕を閉じてしまいました。
 本節では古代オリンピックの由来とその変遷を簡単に追いました。
古代オリンピックの誕生〜その由来と神話〜

 古代オリンピックは神々を信仰するひとつの形としての体育や芸術の競技祭でした。このような競技祭には他にもコリントのイストミアン・ゲームズやネメアのネメアン・ゲームズ、デルフォイのピシアン・ゲームズなどがあり、オリンピアのオリンピア・ゲームズと合わせて4大祭典競技として知られています。オリンピア・ゲームズは競技の保護者が強力であり、また、資料が多く残っていることから後世有名になりましたが、当時はどの競技大祭も同等でした。


古代オリンピックの由来と神
 ギリシア神話に残る祭の起源には諸説あって、ホメロスによれば、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むためアキレウスが競技会を行なったというもので、これがオリュンピア祭の由来であるとする説があります。別の説によれば、約束を破ったアウゲイアース王を攻めたヘラクレスが、勝利後ゼウス神殿を建て、ここで4年に1度競技会を行なったとされます。また別の説によれば、エリス王オイノマオスとの戦車競走で細工をして王の馬車を転倒させて王を殺し、その娘ヒッポダメイアと結婚したペロプスが企てに協力した御者のミュルティロスが邪魔になったので殺し、その後願いが叶ったことを感謝するためにゼウス神殿を建てて競技会を開いたが、ペロプスの没後も競技会は続き、これが始まりだとするものです。どうやら最後の神話が由来としては有力視されているようですが、何れにせよ、神話に残る競技会は何らかの事情で断絶し、有史以後の祭典とは連続性を持ちません。なお、これらの伝承のうちの幾つかは、エリス市民らがオリンピックの由来を権威付けるために後に創作したものも含むと考えられているそうです。

古代オリンピックの誕生
 古代オリンピックの起こりは古代ギリシャ人が残した伝説の中に書き残されていますが、歴史家たちはその発祥を前9世紀頃としています。戦乱から国民を救おうとしたエリスは神託を受けて、各ポリスへと赴いてオリンピックの開催を促したことがきっかけになったとされます。こうして、紀元前776年最初のオリンピック競技大祭が行なわれ、ギリシャ全土が競技を承認しました。ただし、競技の勝利者には月桂樹の冠が与えられ、アルフェイオス川にある柱に名が刻まれるだけだったそうです。

聖なる休戦
 古代オリンピックは、使者が各地を回り開催を知らせ、戦争を中断させる役目を持っていました。そのため、古代オリンピックは「聖なる休戦」と呼ばれ、1169年もの間に僅か一度の例外を除いてこの決まりが守られました。期間は初めのうちは1ヶ月間だったものが、後に3ヶ月間まで延びています。

古代オリンピックと暦
 オンピックが4年に1回開催されるようになったのは暦と関係があります。古代のギリシャは太陰暦を使っていましたが、これは太陽暦と8年間に3ヶ月のズレを生むた、え、そこでそのつど閏月を設けたものの、8年は長いのでその半分を区切れ目としたということです。

古代オリンピックの歴史


初期の古代オリンピック
 古代ギリシアにおいて信じられた直接の起源は次のようなものです。伝染病の蔓延に困ったエリス王イピトスがアポロン神殿でお伺いを立ててみたところ、争いを止め、競技会を復活せよという啓示を得ました。イピトスはこの通り競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王リュクルゴスと協定を結びました。それは、オリュンピアの地に武力を使って入る者は神に背く者であるというもので、この文字が彫られた金属製の円盤がヘラの神殿に捧げられました(ただし、協定を結んだとされるリュクルゴス王が実在したかどうか不明のため、この由来には疑問視する声もあります)。勝者はエリスのコロイボスでした。こうしてエリス領地内のオリュンピアで始まったオリンピックですが、最初のうちの記録は残っていません。記録に残る最初のオリュンピア祭は紀元前776年に行なわれたもので、古代オリンピックの回数を数える時にはこの大会をもって第1回と数えるのが習わしになっています。ただし、先の円盤の作成年代などから推測して、この古代オリンピックの開始年はもう少し遡ると考えられています。また、競技会の行なわれた季節は麦の刈り入れが終わり、農民が若干暇になるユリウス暦の8月だったと考えられています。
 最初はエリスとスパルタの2国のみの参加だったオリュンピア大祭は、正確に4年に1度開催され続け、次第に参加国も増えてきます。そして、ついに全ギリシア諸国が参加するようになったのです。そして、この大会はギリシア共通で使われる暦の単位にもなり、オリュンピアードという単位がそれで、これはあるオリュンピア大祭が開催されてから次の大祭が開催されるまでの4年間を示し、年を特定するためには「第○○オリュンピアードの第n年」と数えます。

中期の古代オリンピック
 オリュンピア大祭はエリス州のゼウスの神殿が建てられたオリュンピアの聖域にある競技場(スタディオン等)で開催されました。開催1か月前には開催を告げる使者がギリシア全体を回り、大会開催中の1か月の間は休戦となりました。後に参加都市国家が増えると、休戦期間はオリンピック開催時を含め前後に合計3か月伸びました。この休戦期間をエケテイリアと言いますが、この休戦はオリュンピアに向かう競技者や観客の旅の安全を保障するためでした。また、ゼウスは旅行者の守護神で、オリュンピア祭への旅の道はとりわけゼウスによって加護されると考えられました。そして、この禁を破った国はオリュンピア祭への参加が拒否された他、他国から外交関係を絶たれることにもなったのです。事実スパルタはこの禁を犯してエケテイリアの時期に他国を攻めたため、オリュンピア大祭に参加できなかったことがあります。この他、オリュンピアをピサに征服されたエリスがオリュンピア大祭開催中にオリュンピアに攻め込んだこともあります。

 大祭は、初期にはスタディオン走のみで1日で終了しました。その後次第に競技種目が増え、紀元前472年には5日間の大競技会となりました。参加資格があるのは健康で成年のギリシア人の自由人男子のみで、女や子供、奴隷は参加できませんでした。全裸で競技が行なわれたのは不正を防ぐためでした。勝者には勝利の枝と勝利を示すリボンのタイニアが両腕に巻かれ、ゼウス神官よりオリーブの冠が授与され自身の像を神域に残す事が許されました。オリーブの冠を授かった者は神と同席することを許された(競技会後オリュンピアの神殿敷地内に優勝者の像が造られることに由来します)者として故郷で盛大に迎えられました。祖国の神殿に像が作られた競技者もいるし、税が免除されることもあったそうです。何れにしても祖国の歴史にながく名が刻まれることになったのです。競技会は大神ゼウスに捧げられる最大の祭典でもあり、祭りであるので殺し合いは固く禁じられました。従って、格闘技で相手を殺した勝者にはオリーブの冠は贈られませんでしたが、逆に勝者であれば死者であっても冠が贈られました。実際、パンクラティオンで相手が降参するのと同時に倒れて死んだ勝者に対して審判が冠を授けたと言います。審判は極めて初期はエーリス王が当たりましたが、競技の数が多くなるとエリス市民から籤で審判が選ばれました。また選ばれた審判達は、オリンピック期間中、神官として扱われました。審判はエリスに設けられた専門の施設で競技規則について10か月に渡り専門家から教えを受けましたが、その間に続々と各国から選手が集まり、1か月前になると、選手と共に合宿練習をして、練習試合の間にまた規則の確認を行ないました。また、予選もここで行なわれました。
 大会直前になると、エリスからオリュンピアまで全選手及び役員が行進しましたが、その距離は50キロ以上になりました。競技会初日は開会式兼儀式が行なわれ、最終日は勝者のための宴がまる1日かけて催され、競技は間の3日間で行なわれました。競技は第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走の他、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技、円盤投、やり投、レスリング、ボクシング(拳闘)、パンクラティオン、戦車競走などがありました。少年競技の部もありましたが、種目は多くありませんでした。なお、戦車競走では、勝者への冠は御者ではなく馬車の所有者に与えられたため、女性でオリーブの冠を授かった者が2名います。また、体育の他、詩の競演なども行なわれました。そして、最終種目は武装競走で、盾を手に1スタディオンを走って往復するものでした。なお、女性の参加と観戦に関しては研究者の間で意見が分かれていて、そもそも競技大祭中はオリュンピアには女は入れなかったという説、神殿と競技場には入れずに外でテントを張って待っていたという説、競技場内でもフィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかったという説、未婚女性に限り競技場観客席での観戦が許されたという説があります。ただ、少なくともエーリスの女神官が観戦していたことだけは確からしい。女人禁制の掟を破った者は崖から突き落とされる(実質的には死刑)というルールでありましたが、記録に残る限り適用例はなく、象徴的なルールであったとも考えられています。

末期の古代オリンピック
 祖国でのオリンピック優勝者への過剰な褒章が逆に大祭の腐敗を生むことになりました。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに不正を働く者、審判を買収する者が出て、オリュンピア大祭は腐敗していったのです。そのため、買収を行なった者とそれに応じた者は以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられました。この罰金を元に、オリュンピアにザーネスと呼ばれる不正を象徴する見せしめのゼウス像が作られましたが、そのゼウス像の数は増える一方で、記録によれば最終的には11体までザーネスが建てられたとされ、今日のオリュンピアに残されているのはその基部のみとなっています。

 なお、ローマは途中からギリシア都市国家に混じって参加を許されたが、ローマは後にギリシア全土を征服し、その属州に編入しました。そのローマによる征服後もオリュンピア祭は続けられたのですが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために第211回オリュンピア競技会の日程を本来行なうべき65年から無理やり67年にずらしたのみならず、たとえ競技に敗れても優勝扱いになってさえいます。また、彼は自分の歌を披露するため音楽競技を追加しました。こうした不正のお陰でネロは7種目で優勝したとされますが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに堪えない劣悪なものだったと言います。もちろんこのようなネロの権力の濫用と不正に対する批判は強く、この祭時を変えさせてまで開催を強行した大祭は後に正式な大祭とされず、ネロの死後公式記録から抹消されてしまいました。しかし、変更された祭時は戻される事なくそのままで、最後の第293回大祭までこれは変わっていません。ただし、ネロの死後この大会の存在そのものがエリスの公式記録から抹殺されたため、この大会をオリュンピア大会と認めない研究者もいます。
 最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは次第に廃れてゆきました。313年にローマはキリスト教を正式に認め、392年にキリスト教を国教としましたが、この時キリスト教以外の宗教は禁じられたことによりオリュンピア大祭も禁じられることになりました。最後の第293回オリュンピア祭は翌393年に開催され、これが古代オリンピック最後の年となりました。この後ローマの異教神殿破壊令によりオリュンピアは神域を破壊され、その長い歴史の幕を閉じたのです。ただし、この最後のオリンピックについては残念ながら記録が残っていいません。記録に残る最後の古代オリンピックは369年の第287回オリンピュア祭で、それも拳闘の勝者のみが記録されています。このためこの回を最終回とする研究者もいます。しかし、その後1990年代になってから、オリュンピアで末期の361年の第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板が発掘されました。それまでは、末期、キリスト教が広まってからのオリュンピアはエリスとその近隣諸都市だけで細々と行なわれていたと考えられていたのですが、青銅板の最後の記録、361年までは、広くギリシア語圏内から競技者が参加していたことが判明しました。この青銅板が後世の偽作であると疑う意見もありますが、確たる証拠はなく、ひとまずこれが末期古代オリンピックに関する主流の見方になっています。


◆参考図書2
桜井万里子・橋場弦『古代オリンピック』岩波新書
桜井万里子+橋場弦・編
古代オリンピック
岩波新書・新赤版901、岩波書店・2004年07月刊、798円
裸の走者が駆け、戦車が競技場を揺るがす。熱狂する観客、勝利者の頭上の聖なるオリーヴの冠?紀元前八世紀のギリシアから古代ローマ時代に至るまで、実に千二百年近くの命脈を保った古代オリンピック競技会を、最新の考古学・歴史学の成果を踏まえて語る。競技の詳細、会期中の休戦、優勝者の得る利益についてなど、興味深い話題は尽きない。

近代オリンピックへの道〜近代オリンピックとその歴史〜

 古代オリンピックから1500年後、フランスの教育者であったピエール・ド・クーベルタン男爵の働きかけによってオリンピックは復活の道を歩み始めます。1894年、彼がパリ国際会議において提唱した「オリンピック復興」は満場一致で可決され、2年後の1896年、ギリシャのアテネで記念すべき第1回オリンピック競技大会が開催されました。大会のシンボルとして馴染み深い五輪のマークも実は彼が考案したもので、世界五大陸の団結を表しています。


近代オリンピックへの胎動
 393年に最後の古代オリンピックが行なわれてから時は流れ、ギリシャのペロポネソス半島に埋まったオリンピアの遺跡と共に、崇高なる精神と強靭な肉体を作るスポーツの祭典はいつしか忘れられてゆきました。それが、11世紀に入ると、キリスト教中心の世界観が漸く崩れ、市民の権利が伸張してゆきましたが、そうした社会情勢の変化の中でイタリアのフィレンツェを中心にルネッサンス運動が進展し、古代オリンピックについての文献も読まれ研究されるようになりました。ルネッサンスの影響はイギリスにまで波及し、一般のイギリス人の間にも古代オリンピック大会に興味を持つ人が出現してきました。1812年には、ロバート・ドーバーが、競技自体はお遊戯同然ではあったものの、コッツワルド・オリンピック大会という運動会を、1850年にはウィリアム・ブルック博士がマッチ・ウェンロック・オリンピック大会という総合競技大会を開いています。
 近代オリンピックへの動きは、イギリスほど長期的・具合的には進みませんでしたが、他のヨーロッパ各地でも徐々に表われ始めました。1881年にはエルンスト・クルチウスによってギリシャのオリンピア遺跡が発掘され、1859年には国内だけの地域的な催しではありましたが、ギリシヤ・オリンピックが開かれています。そうした中で、近代オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタンが登場します。彼は1863年にフランスで生まれ、1883年にイギリスに渡って「スポーツを通した教育」の存在を知ります。1889年にはフランス政府からの命令でアメリカを訪れ、つぶさにアメリカの教育機関とスポーツ施設を見て回ります。このような国際交流によって、クーベルタンは「スポーツの世界は万国共通でなければならない」という考えを抱くようになったのです。

オリンピックの復興が決定
 1892年11月25日、フランスに帰ったクーベルタンは、ソルボンヌ大学での講演でオリンピック競技大会復興に対する支持と協力を要請していますが、残念ながら大した協力は得られず、その時の試みは失敗に終わりました。その後1884年にパリで万国博覧会が開かれますが、クーベルタンはこの機会を利用して一気にオリンピック復興を協議しようと考え、プロジェクトチームを作って議題を決めました。初め反応は鈍かったものの、徐々に国際的な賛同を得ることに成功しました。こうしてオリンピック大会の復興宣言は、1894年6月23日、満場一致で可決され、第1回は1896年にギリシヤのアテネで開催されることになりました。そして、大会開催に関する最高の権威を持つ国際オリンピック委員会が設立され、その会長にはギリシヤ出身の知識人であるビケラスが就任します。こうして1896年4月5日、国王が開会を宣言し、オリンピック賛歌が演奏され、祝砲が響き渡り、鳩が一斉に舞い上がり、漸くクーベルタンの努力が実を結び、オリンピック競技が始まりました。第1回近代オリンピック大会は大成功を収め、15世紀ぶりにオリンピック精神は甦ったのです。

日本におけるオリンピック
 日本の「オリンピック運動の父」は、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長で、柔道の普及に努めた嘉納治五郎です。1909年、彼はアジア初となるIOC委員に就任、日本のオリンピック参加へ向け、大日本体育協会(現在の日本体育協会)を設立しました。1911年には国内選考会を開催、陸上短距離の三島弥彦やマラソンの金栗四三を代表選手に選出し、翌1912年、スウェーデンのストックホルムで開催された第5回オリンピック競技大会で、日本は初のオリンピック参加を果たしています。

 日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年に開催されたストックホルム夏季大会です。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものですが、上でも述べたように、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかったのです。最初は男子陸上のみによる参加でしたが、1928年アムステルダム大会からは女子選手も参加しました。また、このストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加しました。また、男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加したのです。
 日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより日本でのオリンピックに対する関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致することに成功しましたが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり、自ら開催権を返上することになります。戦後の1948年ロンドン大会には、戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、1952年ヘルシンキ夏季大会より復帰しています。日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもあります)及び長野で行なっています。 さらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の夏季オリンピックの開催が決定しました。なお、余談ながらオリンピックの開催年は全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがあり、1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最早の8月2日から開催されたこともあります。


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【3】オリンピックと日本

 2020年に念願の東京オリンピック開催が決定しました。これで2度目の夏季オリンピックが東京で開催されます。しかし、戦前にも東京オリンピック開催が決定していながら、開催を見送った幻の東京オリンピックがあったことは意外と知られていません。
 本節では、最後に、札幌と長野で開催された冬季オリンピックを含め、日本とオリンピックの関わりを取り上げました。
東京五輪が2020年に決定!
東京オリンピック2020
 2020年夏季五輪の開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会は昨年8月7日(日本時間8日)、ブエノスアイレスで行なわれ、開催都市として東京が選ばれました。東京は決選投票でイスタンブールを破り、1964年以来2度目となる開催を決めたのです。マドリードは1回目の投票でイスタンブールと同票となり、最下位を決める投票で落選しました。経済に不安を残すマドリードや国内外に政情不安があるイスタンブールを振り切った形になります。

 招致活動では「安心、安全、確実な五輪」をアピールしました。実際、6月末発表のIOC評価報告書では、高度な交通網と良好な治安状態などが高く評価されていました。そして、投票に先立って行なわれたIOC総会の最終プレゼンテーションには安倍晋三首相が出席し、東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について、「東京にはいかなる悪影響も及ぼすことはない」と安全を保証、高円宮妃久子様は東日本大震災時の各国の支援にお礼を述べられました。東京は85%の競技会場を選手村から半径8キロ以内に配置し、選手や関係者に負担が少ない「コンパクトな五輪」を訴えました。選手村の設計には現役選手の声を積極的に取り入れ、選手第一の姿勢を貫いてきました。東京は2016年大会に続く立候補で悲願を達成しました。五輪は2020年7月24日〜8月9日まで、パラリンピックは8月25日〜9月6日まで行なう計画です。 これで日本での五輪は、72年の札幌と98年の長野の冬季五輪と合わせ、4度目の開催となります。
東京オリンピック1964

 1964年に行なわれた東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)は、10月10日、国立競技場で行われた開会式で幕を開けました。20競技163種目に93の国と地域から5133人が参加して熱戦を繰り広げ、アジア初のオリンピックは大成功に終わりました。大会に併せて東京には首都高速道路や東海道新幹線が開通、都市機能が飛躍的に発展すると共に、日本は高度経済成長の足がかりを?み、世界に向けて戦後の復興をアピールしました。


日本に活気を与えた選手達の活躍
 東京オリンピックでの日本人選手の活躍は目覚ましく、金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個、計29個のメダルを獲得しました。中でも「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームは、決勝で強豪ソビエト(現ロシア)と対戦し、ストレート勝ちで金メダルを獲得、国民を熱狂させました。また、オリンピック2連覇を達成したエチオピアのマラソン選手アベベ・ビキラや華麗な演技で聴衆を魅了したチェコスロバキアの体操選手ベラ・チャスラフスカなど海外選手も人気となりました。

東京オリンピックの功績
 東京オリンピックの功績は都市の発展や経済成長のみならず、日本にスポーツを普及させた点にあると言われています。日本サッカーリーグの誕生やスポーツクラブの一般化など、この国でスポーツが生活の一部となるキッカケとなったのです。


◆参考図書3
松瀬学『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』扶桑社新書
松瀬学・著
『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』
扶桑社新書150、扶桑社・2013年10月刊、777円
今回がラストチャンスだったといわれていた東京、都知事の失言からの脱却/大陸ローテーションとは?2016年に立候補を行い、2020年で開催を決めるというシナリオ、ロビー活動の全容etc.舞台裏をすべて明かす!テレビマネーと開催都市の関係、2016年の招致失敗からどのように再出発したのか?総会直前の取材現場の最前線とは?9月7日投票の裏側を完全リポートetc.本書でしかわからない情報も盛りだくさん!
佐藤次郎『東京五輪1964』文春新書
神山恒夫・著
『東京五輪1964』
文春新書947、文藝春秋・2013年10月刊、872円
さまざまな立場から経験した祝祭を描く 聖火ランナー、金メダリストから、初の衛星放送に挑んだNHKのスタッフ、選手村でヘーシンクの髪を刈った理容師までを訪ね歩いた。
『東京オリンピック 完全復刻アサヒグラフ』
朝日新聞出版週刊朝日編集部・編
『東京オリンピック 完全復刻アサヒグラフ』
朝日新聞出版・2013年10月刊、980円
1964年、東京オリンピック開催年に出した「アサヒグラフ 東京オリンピック(雑誌)」を完全復刻! 豊富な写真で振り返る、日本初の祭典。
市川崑・ディレクターズカット版『東京オリンピック [DVD]』東宝
市川崑・ディレクターズカット版
『東京オリンピック [DVD]』
東宝・2004年06月25日発売、
メーカー希望小売価格6,300円
1964年に開催された東京オリンピックを撮影した、市川崑が総監督を務めた長編記録映画の金字塔。公開当時は「記録か芸術か」という論争まで巻き起こったという。記録映画であるにも関わらず脚本クレジットがあったり、シネスコサイズで撮影されていたり、ドキュメンタリーとしては異色の内容となっている。脚本には市川崑、和田夏十の他に、白坂依志夫や谷川俊太郎が名を連ねている。
東京オリンピック1964 - JOC
http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/

幻の東京五輪〜日本の五輪招致の歴史〜

 日本で開催された夏季オリンピックと言えば、誰もが1964年の東京五輪を思い浮かべると思いますが、しかし、それよりも4半世紀も前の1940年に東京で開催されるはずだった「幻の東京五輪」を知る人は余りいないでしょう。2020年の夏季五輪開催地が決まりましたが、その取り組みも見ながら、日本での五輪招致活動の歴史を振り返ります。

 東京が初めてオリンピックの招致を行なったのは、1940年の第12回大会です。それまで、第2回のパリ大会から第11回のベルリン大会まで、オリンピックはヨーロッパかアメリカでしか開かれていませんでした。東京都が1964年大会後にまとめた「第18回オリンピック競技大会東京都報告書」などの当時の資料を見ると、1940年大会から始まった東京のオリンピック招致の歴史、まさに宿願だった1964年大会開催の興奮を読み解くことができます。
第12回大会(1940年)東京

 日本が日中戦争・太平洋戦争に突入する前の1930年5月、当時の東京市の永田市長が第12回大会招致の意向を表明しました。その頃既にローマ(イタリア)、ヘルシンキ(フィンランド)などの都市が名乗りを挙げており、中でもムッソリーニ首相が陣頭指揮を取っていたローマが最大の強敵と見られていましたが、翌年、立候補辞退を求めるべくムッソリーニ首相に直談判したところ説得に成功、当面の敵はヘルシンキだけでとなりました。しかし、1936年にロンドン(イギリス)が突然の立候補を表明、第4回大会で開催経験もあるロンドンは強敵と見られましたが、票決の直前にイギリスが立候補を辞退したため、結局、東京とヘルシンキの一騎打ちとなり、東京が開催権を獲得したのです。こうして、開催決定後、大会組織委員会が設立され、オリンピックへ向けた準備が進められましたが、1937年7月に日中戦争が勃発、年が明けても戦火は拡大する一方だったため、政府内でも開催の是非についての議論が出始め、結局、万国博覧会の中止決定なども踏まえ、組織委は涙を呑んで大会開催の返上を決定したのです。
第18回大会(1964年)東京

東京オリンピック1964 戦争は第2次世界大戦にまで発展し、日本は敗れました。国土は荒廃し、永らく連合国軍による統治が続きましたが、1952年4月にサンフランシスコ講和条約をもって日本は独立を果たしました。国際舞台に復帰したタイミングで、当時の東京都の安井知事は、青少年に希望を与えることを目的とし、さらに12回大会返上の苦い歴史を踏まえ、再びオリンピック招致を目指すことを決めました。招致活動は順調に進められてゆきましたが、当時のブランデージIOC会長が来日した際、「第16回大会がメルボルン(豪州)で、次の第17回大会が東京ということになれば欧州の国々は承知しない可能性が高い。東京は18回大会に立候補してはどうか」という趣旨の言葉を述べたと言います。結局、1955年のIOC総会ではローマが圧倒的な支持を受けて開催権を得ました。

 ローマに惨敗した東京ですが、次の第18回大会も招致を目指すことが東京都議会で決定されました。招致成功の鍵は「1958年のアジア大会の成否と、IOC総会の東京招へいの実現」とされていました。IOC総会については1956年に東京開催が決定しました。こうして東京都の招致運動が進んでゆくうちに、これまで政府は積極的な支援はしてきませんでしたが、もっと国民的なものとして取組みが必要ではとの声が高まり、1957年、政府も参加する形で「東京オリンピック準備委員会」が設立されました。翌1958年5月、IOC総会が東京で開催。同月24日には神宮の森に新設された国立競技場でアジア大会が開幕しました。このような大きな国際競技大会を日本で開いたのは初めてでしたが、幸い大会は成功裏に終えることができました。こうして東京は万全な準備で1959年5月のIOC総会に臨みました。立候補都市説明では、東京の開催能力の高さと、まだアジアで五輪が一度も開催されていないことを強く訴えました。そして投票の結果、デトロイト(アメリカ)、ウィーン(オーストリア)、ブリュッセル(ベルギー)に圧勝し、宿願だった五輪招致に成功したのです。日本の新聞も「実った東京の悲願(毎日)」「『東京五輪』にわき立つ(朝日)」「悲願30年 うずまく興奮(読売)」などと開催決定の興奮を伝えています。
札幌オリンピック返上

 札幌冬季オリンピックと言えば、一般的には1972(昭和47)年のこととして知られており、その時に70m級のジャンプ競技で、金銀銅の3つのメダルを独占した日の丸飛行隊が大活躍しました。このように記憶に新しいこのオリンピックですが、札幌のオリンピックは本来なら1940(昭和15)年に開催されているはずだったのですが、ある事情によって開催を返上することになったのです。
 昭和15年、第12回夏季オリンピックが行なわれることが決まっていました。開催都市については、現在のように名乗りを上げてゆき、選択されるという方法です。先にも書いたように、この時、日本でオリンピック開催に名乗りを上げたのは東京です。この時の東京市長だった永田秀次郎が、昭和15年はちょうど(神武)紀元二千六百年に当たるから、その記念事業としてこれを東京に招致したいと発言、この意向を受けた東京市会は翌昭和6年10月、大会招致建議案を検討します。そして、昭和11年7月31日、ベルリンで行なわれた第35回IOC総会で1940(昭和15)年の東京大会が正式に決定したのです。 そして、これで第5回の冬季オリンピックの日本開催もほぼ間違いないものになりました。というのは、当時のオリンピック憲章では、冬季オリンピックは夏季を開催する国にして冬季競技の全種目を組織するに十分な保障ある場合は、その国に選択権を与えるとされていたのです。つまり、第5回冬季オリンピックの開催地をどこにするかを決めるのは夏季オリンピックの開催国で、夏季オリンピックは東京開催ですから、日本国内での冬季オリンピック開催は当然のことだったわけです。後は冬季オリンピックの開催都市をどこにするかが問題となりました。スキー連盟は札幌を推薦し、これに対してスケート連盟は日光を強く推しました。話し合いが続けられ、ついに昭和12年3月18日、冬季オリンピック会場選定委員会によって、開催地は札幌(予備地・日光)ということが決定されました。これで国内の調整は全て終了します。残るはIOC総会での決定だけでした。昭和12年6月7日から総会がワルシャワで開催されました。総会は3日目となる9日に冬季大会の開催地について審議しますが、その結果、満場一致で第5回冬季オリンピック開催都市を札幌に決定されした。記録は決定の時間までも伝えていて、9日午後7時20分だったと言います。もっとも、「第5回冬季大会を札幌で行なうに十分な自信と見通しが、翌年のカイロ総会までにつけば札幌で行なう、そうでなければノルウェーで行なう」という条件つきではありましたが、札幌は夢の大舞台へ向かうことになったのです。札幌オリンピック開催の知らせは日本時間10日未明、新聞社は直ぐに社屋前の特報板に記事を張り出しました。人々はこの報道に黒山の人だかりとなって見入り、大いにオリンピック決定を喜んだのです。こうして、札幌はオリンピック歓迎一色になってゆきました。6月19日には午後2時から旗行列、小学校5年生以上と女学生計1万人が市内を練り歩き、夜は7時30分から中学生、青年学校生ら1万人による提灯行列が行なわれました。こうした祝賀ムードの中、1か月後の7月19日には、石黒英彦道庁長官を委員長とする第5回冬季オリンピック札幌大会実行委員会が設置されるに至りました。そして、大会の会期は昭和15年2月3日から14日までとされ、競技の実施場所も決められていきました。それによると、ボブスレー競技は神社山、スケート競技は中島公園、回転競技は三角山、滑降競技は手稲山、ジャンプ競技は大倉山シャンツェでした。また、選手寄宿には新設予定の小学校が予定されていました。しかしながら、この札幌オリンピック決定から7月までの間に、日本を取り巻く世界環境はがらりと変わってゆきます。この年の7月7日、中国・北京近郊で日本軍と中国軍が衝突してしまうのです。後に盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)と言われるこの衝突は日中戦争の直接の導火線となってしましました。一時、日本政府は不拡大方針を発表しますが、燃え上がった戦火は次々と広がる気配をみせてゆきます。やがて戦火は拡大し、日本は軍事一色に染められてゆくことになりました。そして、この事件をキッカケに、9月初旬にはオリンピック返上論が出て来ます。「オリンピックの開催 非常時に鑑み断念か」「支那事変の解決に邁進の秋 挙国一致の論抬頭す」などと新聞も発表します。燃え広がる戦火はオリンピック返上を大勢としてゆきました。そして、翌昭和13年7月14日、オリンピック東京組織委と札幌実行委は共同声明を出し、オリンピック返上の方針を明らかにします。札幌オリンピックが開催されるとされていたのは僅か1年ほどでした。戦後間もなく札幌での冬季大会の開催招致が取り上げられるようになりますが、それが実現したのは約25年も後のことになります。
参考:東京オリンピックとカラーテレビ


東京オリンピックとカラーテレビ
 東京オリンピックは別名「テレビオリンピック」とも言われています。実は当時まだ遠隔地へのテレビ中継が難しかったテレビ中継技術は、この東京オリンピックによって格段に向上したことが印象づけられることとなったのです。それと同時にカラーテレビは東京オリンピックを契機に宣伝に力が入れ始められることになります。白黒テレビが1959年に23.6%だった普及率は、東京オリンピックが開かれた1964年には87.8%にまで上昇しています。ただ、カラーテレビは当時高価だったこともあり、普及率は1%未満でした。このため、東京オリンピックは開会式の視聴率が84.7%、6500万人の日本国民が視聴したと言われますが、多くが白黒によるテレビ視聴でした。しかし、テレビメーカー各社が広報に力を入れ始めたのはオリンピックをキッカケにしてのことだったのです。

テレビオリンピック
 東京オリンピックのテレビ中継に国の威信をかけて取り組んだことで、テレビ技術の進歩は目覚しいものになりました。NHKを始めとする日本の放送関係者が、撮像管の開発から衛星中継までの一連の機材を国産で開発します。衛星中継のために用いられた静止衛星シンコム3号は世界に初めての生中継を実現させました。また、白黒テレビで見る多数の視聴者のために分離輝度2撮像管式カラーカメラが使用され、白黒でも画質が落ちないような配慮も為されました。競技をVTRでもう一度リプレイする時に使うスローモーションVTRや接話マイクなどテレビ放送の新しい形式もこの時一挙に登場したのです。

世界で3番目に始まったカラーテレビ本放送
 日本のカラー放送は1960(昭和35)年9月10日、世界でアメリカ、キューバに次いで3番目にアメリカと同じNTSC方式で始まりました。このNTSC方式は全米テレビジョン方式委員会(NTSC)が決めたもので、走査線525本。アメリカRCA社が開発した方式で、最大の特長は、白黒テレビ受像機でもカラー放送の内容を見ることができるようにしたことです。
 日本テレビ(NTV)、ラジオ東京(現TBS)、朝日放送、読売テレビ放送がそれぞれカラー本放送を開始しました(ちなみに、1952年3月22日の放送記念日に東京・内幸町の放送会館でカラーテレビの公開実験が行なわれますが、これは機械式のCBS方式で、白黒テレビの本放送開始1年前のことです)。初期のカラー放送はまだ放送局の設備も充分でなく、外国のカラー映画の放送やスポーツ中継、それに短時間の教養番組などが中心でした。本放送から7か月経った段階でも、NHK総合のカラー番組は1日1時間、NTVは2時間42分、TBSは6分ほどでした。当時のカラーテレビは21インチ型で1台50万円もしたので、庶民にはとても手が出ず、カラー放送開始時点では1200台程度しか普及していませんでした。なお、それが1966年3月には電電公社による全国カラー放送用マイクロ回線網が完成、カラー放送の全国視聴可能範囲は93%になっています。

日本で開催された二つの冬季大会とその比較〜札幌オリンピックと長野オリンピック〜
冬季オリンピックの特徴

 冬季オリンピックは、夏季オリンピックとは異なり、開催に当たって全く別の条件を求められる大会です。寒冷地なら無条件によいというわけではなく、屋外競技に適した雪質が求められますし、スキーやボブスレーなどの屋外競技とスケートやアイスホッケーなどの屋内競技の両方が行なわれるため、ゲレンデや競技コースの設けられる山間部と交通至便で報道センターや選手村などを置きやすい都市部に会場が分かれることになります。実際、冬季大会の課題は、会場への選手や報道陣、観客の輸送や除雪、悪天候による競技日程の順延などにあることが多いとされます。歴代の冬季オリンピック大会の開催都市を見ると、フランスのシャモニーやスイスのサンモリッツなど国際的に有名なスキー場を擁するような土地で開かれており、アメリカのレークプラシッドやオーストリアのインスブルックなどでは複数回のオリンピックが開催されています。そんな開催地の中に日本の札幌(1972年)と長野(1998年)が名前を連ねていることは多少驚きを禁じ得ません。何れにせよ、夏季大会よりは気候的に条件が難しい点があるため、開催できる都市も限られてくるわけですが、しかし、ひとたびオリンピックがその都市で開かれ、会場の整備が行われれば、その後もスキーやスケートなどのウインタースポーツの大会開催地として世界中にその都市がアピールされる場となるのです。


◆参考図書4
『歴史ポケットスポーツ新聞 冬季オリンピック』大空出版
菅原悦子・著
『歴史ポケットスポーツ新聞 冬季オリンピック』
大空ポケット新書、大空出版・2009年12月刊、900円
2010年2月12日〜28日カナダ・バンクーバー開催の冬季五輪が10倍楽しめる!! 1924年、フランスのシャモニー・モンブランの第1回から86年、冬季オリンピックは21回開催されています。本書ではそれまでの全大会を貴重な写真と新聞風のオリジナル記事で完全再現、大会記録はもとより、開催地・大会にまつわる様々な出来事も取り上げます。
JOC - 冬季オリンピックの歴史
http://www.joc.or.jp/column/olympic/winterhistory/
冬季オリンピック メモリーズ Memorys of the OLYMPIC WINTER GAMES
http://winter-olympic-memories.com/html/history_and_data/history_and_data-top.htm

サッポロオリンピック〜日本初の冬季オリンピック〜

 1972年の札幌オリンピックの開催は1966年に決定されました。1964年の夏季東京大会と同様に戦前の1940年に開催が計画されていたのですが、第二次大戦のため中止された経緯を考慮して開催地として指名されたのです。なお、このオリンピックに際して、札幌とその近郊に14の競技施設が新設されました。開会式、閉会式が行なわれたスケート場やオリンピック村、プレスセンター事務局などは札幌市内の真駒内、西岡地区に置かれ、選手村であるオリンピック村には札幌市近郊の北海道警察学校跡地に日本住宅公団が建設した真駒内団地の賃貸及び分譲住宅が当てられました。1971年12月には高速電車が開通し、この団地は都市部と約15分で結ばれるようになったのです。そして、競技場と併せて、これらを繋ぐ道路の整備も必要でした。合計20路線、総延長58キロの道路が造られ、主会場である真駒内と札幌都心を結ぶ地下鉄南北線12キロもオリンピック開催に間に合うように建設されました。ゴムタイヤの車両の地下鉄は走行時の音が静かな、全国でも珍しいものとして知られています。また、この地下鉄建設が契機となって地下街が整備され、冬の札幌の街並みは大きく変貌しました。
 ゲレンデが必要であるスキー競技のためには、市内から若干離れた手稲山と大倉山、宮の森地域に会場が設営されました。スキーのメイン会場とも言える場所が手稲山に置かれたのは、このオリンピックを機に札幌市内から日帰り可能なこの地に難易多彩なゲレンデと輸送施設が充実したスキー場を設営しようとした意図が働いた結果でした。この手稲山にはリュージュ、ボブスレーのコースも設営され、中でもボブスレー競技場は我が国で初めて建設された正式なコース場でした。また、スキー男女の滑降コースが造営されたのは、手稲山とは別方向、札幌市の南35キロに位置する恵庭岳で、これは支笏洞爺国立公園内に位置するため、コース造成に伴い国有林の伐採や地形の原形変更が問題となりましたが、札幌近郊で滑降競技場の条件を満たす山は恵庭岳しかないという事情のため、一切の施設を大会後直ちに撤去し復元するという条件で、ここに滑降競技場が設置されることになったのです。そして、日本の選手が金銀銅メダルを受賞し、大いに注目を集めたスキージャンプ競技の会場は大倉山、宮の森地区に造られました。大倉山会場は1931年に出来た歴史ある旧大倉山シャンツェに改造を加えたものです。寄贈者である大倉喜七郎男爵の名を記念して命名されたこの競技場は、日本のジャンプ名選手を生んだ歴史的な場ですが、大倉の嵐と呼ばれる斜面下方から横殴りに巻き上げる独特の風が絶えず、特に外国人選手には恐れられていました。その嵐の解消と観客席の確保のために改造工事が行なわれましたが、移動させた土量24万立方メートル、盛り土量20万立方メートル、その最大高さ30メートル、そして、岩盤掘削を伴う新設同様の大工事となりました。
長野オリンピックのキーワードは環境と平和

 札幌オリンピックから26年後の1998年、再び日本の地で冬季オリンピックが開催されることになりました。それまでウインタースポーツの場として世界的には全く無名だった長野がオリンピック開催地に選ばれたのは、1991年、英国バーミンガムでのことでした。IOCがアジア東部に最高レベルの冬季スポーツ拠点を設置したいという意向を持ち、長野開催を支持した結果です。それを受けて、長野ではオリンピックに向けて、14会場のうち8会場が最新の設備で建設されました。
 このオリンピックで重要視されたのは、26年前の札幌大会の時にはまだ今日ほど意識されていなかった環境という問題でした。そのため、スポーツ施設の開発と自然の保護再生を両立させることが大会実現運営の必須条件となったのです。そのため長野大会では、「スキー滑降競技の距離を伸ばし、スタート地点をより高く」という要望に対して、その地点が立ち入り禁止の国有林であることから、環境保護団体とのすり合わせが幾度となく行なわれた他、フィニッシュエリア一帯の雑木林ではキバナイカリソウを移植、イワナやサンショウウオを捕獲して上流へ放すということが行なわれました。また、当初は白馬村に設定されていたバイアスロンのコースはオオタカなどの猛禽類の巣が確認されたため、野沢温泉に変更されたりもしました。さらに、高度な技術によるリンク整備が必要なスピードスケートやフィギュアスケート、アイスホッケーなどには、オゾン層の破壊や地球温暖化に繋がらない冷却アンモニア方式が採用されました。そして、新設された会場は全て大会後の用途が予め設定され、ウインタースポーツ以外にも夏季における用途も決められていました。メイン会場となった長野は善光寺の門前町で、開会式と閉会式は長野市に建設中だった南長野運動公園の多目的競技場をオリンピックスタジアムとして整備され、スケートやアイスホッケーの会場としても使用されました。ここは現在も毎年行なわれている長野オリンピック記念長野マラソンのゴール地点としても使用されています。また、新設されたスピードスケートリンクはエムウェーブの愛称を持ち、屋内リンクは1周400メートルダブルトラックで国内初最大級のものです。信州産のカラマツ集成材を使った大規模なつり屋根構造の建物となりました。次に、フィギュアスケートとアイススケートショートトラックの会場となったホワイトリングは善光寺平にきらめく水玉をイメージした高さ39.7メートルのドーム建築で、屋根を組み立ててから持ち上げるリフトアップ工法が採用され、大会後は総合的な体育館として利用できるように計画されたものです。アイスホッケー会場のビッグハットやアクアウイングも、スポーツやイベントに使用できる多目的ホール、屋内プールとしての利用が前提とされて計画されたものでした。これら室内でのスケートリンク競技には、熟練したリンク作りの技術が必要とされ、ます。また、観客入場後のアリーナ内の温度によりリンクのコンディションが変わってくることから、大会前には入念なデータとノウハウが蓄積されました。そして、スキー競技の会場となったのは白馬村、スノーボードやアルペン競技の会場は志賀高原となりました。白馬村に造られたジャンプ競技場は、K点が90メートルのノーマルヒルと120メートルのラージヒルのジャンプ台が2つ並ぶという世界中でも珍しい構造です。スタートタワー、専用リフト、ライブハウス、人工降雪設備を備えた最新鋭のもので、1年中使用が可能です。大会中も夜間ライトアップされ、このオリンピックのランドマークとなりました。また、長野市北部の浅川に造られた総延長1700メートルに15のカーブが連続するボブスレー、リュージュのコースは、札幌オリンピック以降、国内では殆どコース造成が行なわれていなかったので、ドイツからアイスマイスターが来日し、コース設営に協力してくれました。また、この長野大会ではスノーボードやカーリング、女子アイスホッケーが初種目として採り入れられ、それぞれの会場が賑わいました。もちろん長野でも他の例に漏れず、オリンピック道路や高速道路、地下鉄や鉄道などのインフラが整備されました。中でも長野新幹線「あさま」がオリンピック開幕4か月前に開業し、東京-長野間が今までの半分ほどの79分で結ばれるようになりました。また、近年のオリンピックは莫大な放送権料を収入源としていますが、そのテレビ中継などのための国際放送センター(IBC)とメインプレスセンターは長野駅にほど近いところに設けられ、ここから世界中に日々の熱い戦いが発信されてゆきました。オリンピック村は、長野市中心部から南へ7キロほどの場所に位置する川中島町今井に長野市が建設した今井ニュータウンを借り上げて整備したもので、面積19ヘクタール、建物23棟、1032戸という大規模なものでした。
両オリンピックの比較

 以上2つの日本で行われた冬季大会を、1964年の東京の夏季オリンピックの例と比べてみると、中々興味深いものがあります。東京という日本の首都であるメガシティと、寒冷地である地方都市の違い。それにもまして、冬季大会と夏季大会の如実な違いは、夏季大会ほどの経済効果が冬季大会には望めないこと、そして、大会後の施設の有効利用が難しいなどの問題がある点です。環境に対する負荷を少なくしようという姿勢も年々厳しくなり、特にスキー滑降やクロスカントリーなど山間部で行なわれる競技コースの整備もままならないものがあります。なお、冬季に比べて1年中活用できるのが、夏季オリンピック開催に伴う会場や都市整備です。2016年のオリンピック開催地として東京の都市を美しく整備しようという気運が盛り上がっているのも、これらの事情が作用してのことに他なりません。1964年の東京オリンピックで整備された国立競技場や駒沢競技場をはじめ、首都高速やオリンピック道路などは、40年以上を経ても未だ東京の骨格となるインフラとして機能しています。東京が誘致を目指している7年後のオリンピックに、この都市を大きく変革する国民的行事に向けての様々な動きが期待されます。

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