【3】障害者とスポーツ〜その意義と歴史〜 |
パラリンピックは障害者スポーツの世界的祭典ですが、それではそもそもその障害者スポーツとは一体どのようなものなのでしょうか?
本節では、障害者スポーツの歴史を概観することでその意義を探ってゆきます。
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障害者とスポーツ |

障害者は身体障害、知的障害、精神障害の3障害に分類されています。身体障害には肢体不自由と視覚・聴覚障害、内部障害に区分され、知的障害もダウン症や自閉症、てんかんなどに代表される種類があります。また精神障害の場合、身体・知的障害はある程度障害レベルが固定化しているのに対して、現在も治療が必要なケースや今後再発・再燃する危険性を伴う慢性疾患として考えられています。このようにひと口に障害者と言ってもその種類や程度が個人により様々で、医学的処方の下で行なわれる機能回復訓練(リハビリテーション)としての運動は別として、予期せぬ動作を伴うスポーツなど身体活動を行なう際はまず障害の特徴を充分に考慮し、安全が確保されなければならないことは当然のことですが、それは、その障害があるために出来ないこと、危険を伴ったり二次障害の恐れがあるためにしてはいけないことがあるためです。従って、障害者スポーツとは、以上3障害の特質や疾患の状況に配慮し、その障害に適合(合致)させたスポーツ種目、競技を総称する呼び方だと言うことができます。特別に障害者だけに限定したスポーツとか何か特殊なジャンルがあるわけではなく、彼らに合わせてルールや用具等を変更、改良、工夫した各種スポーツだと理解することが大切です。
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障害者スポーツとその必要性 |
障害者スポーツが始まった頃の我が国では、障害のある人々のスポーツはまだほんの一部の人のものでしたし、大体、障害のある人々もその必要性や可能性に気づいている人自体がまだ余り多くない状況でした。しかし、心ある人達は、障害のある人々にこそスポーツ(身体運動)が必要であると考え、その実現のための努力を続けて来た心ある人達がたくさんいました。その必要性の根拠には、まずは身体面からの理由が挙げられます。その第一は障害のある人々、とりわけ重い障害のある人々は「寿命が短い」と言う事実があります。ある養護学校の訪問教育を受けている子ども達(最重度の障害児)の調査では、10年間に41人中13人の子どもが在学中に死亡しています。また、1種1級(最重度)の身体障害者を収容している療護施設が全国に約200カ所ありますが、その1つの施設で、入所者の平均寿命が男女共に46歳と報告されています。重い障害のある人々の寿命が短い理由には、これらの人々は元々身体が虚弱であるとか合併症が多いことなどが考えられますが、それに加えて、重い障害のある人々は身体を動かさない(動かせない)ことがあると考えられます。世界的な生理学者ルーは、今から100年も前に「動物の身体は適度に動かせば発達する。動かさなければ退化・萎縮する(ルーの法則)」と述べていますが、我が国の運動生理学の権威・小野三嗣教授は、この法則に「寿命まで短くなる」と付け加えています。つまり、重度の障害のある人々にとって身体運動は生命にも関わる重大問題なのです。心ある人達が「障害のある人々にこそスポーツが必要」と主張する大きな理由がここにあります。そして、その次に挙げられるのは、リハビリテーションの面からの理由です。障害のある人々がスポーツ(身体運動)を始めるキッカケが障害克服への願い(障害を治したい・軽くしたいとの願い)からである場合が少なくありません。また、先にも述べたように、今日のパラリンピックの原点がL・グットマン博士のリハビリ訓練へのスポーツの採用であったことは周知の通りです。ここにも障害のある人々にとってスポーツ(身体運動)が一般市民以上に必要な理由があります。
必要性の第二の理由は精神面からの問題です。障害のある人々がスポーツをすることで自信と勇気を得て、見違えるように積極的な生き方をするようになった例は数多くあります。たとえば労働災害で両腕と片足を付け根から失い、失意のどん底にいた男性が、リハビリ訓練の水中動作で胴体と片足で泳げるようになり、それがキッカケに生きる自信と勇気を得、就労の意欲と義手でのパソコン技術を獲得、さらには結婚にまで至ったなどという例もあるのです。このような例は他にも数え切れないほどあります。これは、障害を持った自分には不可能だと考えていたスポーツ(身体運動)が可能であることが自分の身体を通して具体的に分からせるからだと思います。まさにスポーツ(身体運動)は障害のある人々に「生きる力」を与えるのです。また、障害のある人々には表情の暗い人が多い傾向がありますが、これらの人々の表情がスポーツの場面では見違えるように明るくなります。これはスポーツの持つ精神解放の作用ですが、ここにも障害のある人々へのスポーツの持つ格別の働きがあります。発達の遅れのある子ども達に対してスポーツ(身体運動)がもたらす精神的効果については最近多くの学者や実践家からの報告もあります。
最後は障害のある人々のスポーツ権の問題です。国連宣言及び国連憲章の見地からから言って、全ての障害児者にスポーツ実施の権利があると言えます。すなわち「国連・障害者の権利宣言」(1975年第30回国連総会で満場一致採択)においては、《障害者は、いかなる例外もなしに、またいかなる状況による区別も差別もなく》(第2条)、《その障害の原因、特質及び程度のいかんにかかわらず、同年齢の市民と同等の権利を持つ》(第3条)と規定されています。また「国連・体育スポーツ国際憲章」(1978年国連ユネスコ総会で満場一致採択)では、《体育スポーツの実践は、すべての人にとって基本的権利である》(第1条第1項)と規定されています。これらの規定は、すなわち「最重度の人を含む全ての障害児者のスポーツ権」の存在を明確に示していると考えることができます。
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スポーツの生活化〜国民の権利としてのスポーツ〜 |
近年、子どものスポーツとか高齢者スポーツ、障害者スポーツという括り方をして対象者別にスポーツを分類することがよくあります。スポーツ実践において発達段階を考慮し、世代のニーズやレベルに対応し、障害に配慮・工夫することは当然のことですが、しかしながら、その対象者だけに限られたスポーツがあるわけではありません。むしろその人の興味や関心、動機や目的に応じて自由に取捨選択し実践しているもののです。特に今日、社会生活において健康に対する意識が高まり、生活の質(QOL:クオリティ・オブ・ライフ)の向上を求める人々が増えてきていることを背景に、スポーツに対する認識も多様化してきています。長い間スポーツという文化は身体能力に優れ、高い技術を有した若者たちに支えられ、独占されてきましたが、スポーツは今や全ての人々にとって生活を潤し、人生を豊かにする価値ある存在、意義のある文化的営みであると考えられるようになっています。言わばスポーツの生活化の時代に入ってきたと言えるでしょう。
このような時代状況の変化を受けて、2011年、「スポーツは世界共通の人類の文化である?」の前文で始まる「スポーツ基本法」が公布・施行されました。これは、子どもからお年寄りまで全ての国民がスポーツを通じて幸福で豊かな生活を営む権利があることを明文化した画期的な法律です。1961年、体育・スポーツに関するスポーツ振興法の制定以来、実に50年ぶりの全面改訂になります。文化としてのスポーツの持つ社会的な価値と意義、そして、その果たすべき役割を認め、スポーツ実践を通じて健康で活力に満ちた長寿社会の実現に向けての環境整備が必要であるとしています。そのために政府が法制上・財政上・税法上等の措置を講じなければならないとしている点も重要です。さらに特筆すべきこととして、第1章基本理念の中で「障害者のスポーツ振興・推進」の必要性、第3章基本的な条件の整備の中で「障害者の安全の確保や利便性の向上、また、競技水準の向上では国民体育大会と並列して全国障害者スポーツ大会の開催が規定されたことが挙げられます。これは障害者にとっても、日常生活における楽しむスポーツの実践からパラリンピック選手などトップアスリートの養成・強化に至る環境条件の整備・推進を想定しているものと考えられ、今後の発展に向けた根拠たり得る法改正と位置づけることができるでしょう。今後国や地方公共団体はスポーツ施策の総合的・計画的推進を図るために「スポーツ基本計画」「スポーツ推進計画」を定めなければならないことになっており、地域における障害者スポーツの更なる発展と競技力向上に向けた対策が一体になって推進されてゆくことが大いに期待されるところです。
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障害者スポーツとその歴史 |
障害者スポーツの経緯 |
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リハビリとしてのスポーツ |
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4年に1度開催されるパラリンピックは、その度に私達に多くの感動や勇気を与えてくれます。そのパラリンピックの原点は、第2次世界大戦後にリハビリの一環として取り入れられたスポーツでした。
第2次世界大戦の激化により脊髄損傷になる兵士が急増することを見越したイギリスのチャーチル首相らは、兵士の治療と社会復帰を目的にロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科を1944年に開設、その病院の治療としてスポーツが取り入れられました。その当時脊髄損傷科長であったグットマン博士は、1948年にロンドンオリンピックの開会式の日に病院内でスポーツ大会を開催、これがパラリンピックの原点となり、1952年には国際大会(国際ストーク・マンデビル大会)へと発展しました。更に1960年のローマ大会からは、オリンピック開催年の大会だけは極力オリンピック開催国で行なうようになりましたが、このローマ大会が第1回パラリンピックと位置づけられている大会です。 |
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我が国の障害者スポーツ |
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日本において障害者スポーツが広まった契機は、1964年に日本で開催された東京パラリンピックです。各国の選手達が生き生きとスポーツをする姿に日本の障害者や医療関係者、福祉関係者が深い感銘を受け、日本でも障害者スポーツを盛んにしようという動きが高まりました。そして、その翌年には国民体育大会が開催された地で身体障害者の全国スポーツ大会が開催されるようになり、次第に訓練の延長としてではなく、スポーツをスポーツとして楽しむという意識が生まれてきたのです。 |
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競技性の高いスポーツへ |
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1998年に開催された長野パラリンピック冬季競技大会は、障害者スポーツの競技性が重視された大会であった中、日本選手団の目覚ましい活躍が深い感動を呼び、マスメディア等を通じて広く国民が障害者スポーツをスポーツとして認識することとなりました。
これ以降、障害者スポーツは一般的にイメージされていた「リハビリテーションの延長」という狭義のものから、生涯スポーツや競技スポーツなど障害のない人々と同様に多様な目的で行なわれていることが知られるようになりました。その結果、ノーマライゼーション社会の構築に向けた役割や障害者の自立や社会参加を支援するという大きな役割も果たすようになったのです。 |
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障害者スポーツの歴史(世界編) |
障害のある人々のスポーツ(身体運動)の源流は、古くは古代エジプト時代の医療訓練にまで遡ることができます。しかし、より直接的には16世紀以降欧米を中心に発展した近代医療訓練と、18世紀頃から英国を中心に発達した近代スポーツ(現在世界で実施されている競技スポーツ)がその母体と考えられます。
まず耳の不自由な人々のスポーツは、18世紀半ば頃からイギリスの紳士階級が近代スポーツを発展させてゆく中で、そのスポーツから「紳士でないから」として疎外された耳の不自由な人々が「自分達も同じようにスポーツがしたい」と考えるようになり、それが世界最初の障害のある人々のスポーツ組織・ろうあ者スポーツクラブ(1888年ベルリン)の旗揚げとなりました。そして、これが1910年のドイツろうあ者スポーツ協会の創設へと発展し、同様な動きがドイツ近辺の各国にも起こり、ついに1924年の第1回世界ろうあ者競技大会の開催(パリ)へと至るのです。なお、同大会は第2次大戦中を除き、以後4年毎に「ろうあ者のオリンピック」として現在も開催されています。また、前記第1回競技大会開催中の会議で世界最初の障害者スポーツ国際組織・国際ろうあ者スポーツ委員会(CISS)も設立されています。
また、もう一方の医療訓練からの発展としては、第1次及び2次大戦での戦傷者へのリハビリ訓練へのスポーツの採用が今日の障害者スポーツの形成に大きな影響を与えています。ちなみに、第1次大戦中のドイツ陸軍野戦病院ではシェーデ他4人の軍医が戦傷者のリハビリ訓練にスポーツを採用したとの史実があり、第2次大戦ではこれが各参戦国に広がり、その訓練を受けた戦傷者達が帰郷後に自国でスポーツを実施、各国で戦傷者スポーツ連盟を結成しています。これを世界歴戦者連盟(戦傷者の国際組織)が統合して国際身体障害者スポーツ機構(ISOD)が1962年に設立されています。同組織は独自の国際競技大会を開催する他、後のパラリンピックの主催団体にもなっています。
次に、先にも述べたイギリスの国立戦傷脊髄損傷者病院の院長であったL.グットマン博士は、同病院の戦傷者の治療にスポーツを積極的に採用したわけですが、この時、戦傷者達に与えたとされる《失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ!》という言葉は、障害のある人々をスポーツを通じて励ます言葉として現在も世界中で語り継がれています。そして、同博士は1948年7月のロンドン・オリンピックの開会式当日、同病院に入院中の26名の戦傷者にアーチェリーの試合をさたのです。同競技会は以後毎年開催されるようになり、その中で競技種目も次第に増えてゆきました。さらに1952年からは国際大会となり、その名称も国際ストークマンデビル競技大会(ISMG)と呼ばれるようになります。そして、1960年には国際ストークマンデビル競技連盟(ISMGF)も設立され、現在では日本も含め40数カ国が加盟するまでになっています。さらにグットマン博士は、この大会をオリンピックの年にはその開催国で実施したいと考えてIOC(国際オリンピック委員会)等に強く働きかけ、それが1960年のローマ・オリンピックから実現したのです。そして、その次の東京オリンピックからは「パラリンピック」の愛称の下に開催され、現在に至っています。ここから同博士は「パラリンピックの父」と呼ばれるようになったのです。なお、このような耳の不自由な人々や戦傷者のスポーツの発展は、他の障害のある人々、すなわち目の不自由な人々や脳性マヒの障害のある人々、知的発達に遅れのある人々のスポーツにも強く影響し、第2次大戦後次々と国際組織が設立され、それぞれが独自の大会等を開催すると共にパラリンピックの主催団体にもなっています。
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障害者スポーツの歴史(日本編) |
日本の場合は、大正中期から昭和初期にかけて目や耳の不自由な人々の近畿大会や全国競技大会が開催されていました。しかし、満州事変(1931年)以後、日本の対外侵略戦争の開始の中で、「兵士になれない」障害のある人々のスポーツは当然の如く行なわれなくなりました。そして、それが本格的に行なわれるようになったのは、1964年の東京パラリンピック以後です。同パラリンピックの開催は、その意味で我が国の障害のある人々のスポーツの発展に極めて大きな影響を与えたと言えます。そして、同パラリンピックの翌年の1940年には財団法人・日本身体障害者スポーツ協会(現在の日本障害者スポーツ協会)も設立され、同協会の最初の仕事が同年秋の第1回全国身体障害者スポーツ大会(愛称:身障者国体)(岐阜県)が開催されました。同大会は2000年の富山大会まで36年間に渡って毎年秋の国体後に開催されてきました。また、これとは別に知的発達に遅れのある人々の全国大会が1990年から2000年まで「ゆうあいぴっく」の愛称の下に開催されてきましたが、2001年の宮城国体からは上記両大会を統合して全国障害者スポーツ大会と名称も変更して開催されるようになりました。そして、上記各大会の開催が契機となって、我が国の障害のある人々のスポーツは大きく前進します。ちなみに、都道府県・政令指定都市の障害者スポーツ協会は現在62団体が存在しています。また、日本車椅子バスケットボール連盟等の競技別全国競技組織も48団体に上っています。更に障害者総合スポーツ・センターが全国に22カ所、スポーツ施設の設置が義務付けられる障害者総合福祉センターが20カ所、勤労身体障害者体育施設が30カ所、勤労身体障害者教養文化体育施設が33カ所設置されています。そして、日本障害者スポーツ協会所属の公認障害者スポーツ指導員は全国に19,735名も存在するようになっています。以上の結果、2004年のアテネ・パラリンピックでの日本選手団は、金17、銀15、銅20(合計52個、世界第10位)の成績を挙げるまでになりました。ただ、上記の競技スポーツに参加できる人は、やはり若くて比較的障害の軽い人や単純な障害の人(聴覚・視覚・脊損等)に多く、真にスポーツ(身体運動)を必要とする障害の重い人や高齢の人には参加できない場合が多いという現状があります。これらの人々を含む全ての障害のある人々にスポーツ(身体運動)を保障するためには今後さらなる検討と努力が必要となります。
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我が国の障害者スポーツ大会の経緯 |
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戦後間もなく、我が国においても身体障害者を対象にした自治体レベルの体育大会や運動会が開催されてきました。しかし、必ずしもルールに則ったスポーツ大会や、ましてや競技大会という様相ではありませんでした。むしろ「まだ多くの役人や医師、マスコミ関係者に障害者を見世物にするとは何事だ、第一、危険ではないか」などと批判されたり、猛反対を受けたりしていた時代です。徐々に戦後復興が進む中、我が国の障害者スポーツを全国に広める大きな契機になったのが1964年の東京パラリンピックの開催(東京オリンピック直後に国際身体障害者スポーツ大会として開催)です。そして、この大会の成功を機に、全ての身体障害者を対象に「体力の維持、増強、残存能力の向上及び心理的、社会的更生の効果を図り、国民の理解と関心の高揚、身体障害者の自立と社会参加の促進に寄与」という目的で、翌1965年から第1回全国身体障害者スポーツ大会が秋季国体後に毎年同県において開催されるようになったのです。この大会は第36回大会(2000年)まで持ち廻りで開催され、身体障害者スポーツの全国的普及のキッカケを作り、地方の振興及び活性化、障害者への理解の促進に多大な貢献を果たしてきました。また、障害者がスポーツと出会い、競技者に成長していく1つの登竜門としての役割をも担ってきたと言ってよいでしょう。なお、知的障害者を対象とした全国規模の大会としては、1993年の「国連・障害者の10年」の最終年を記念して、厚生省主導の下に第1回全国精神薄弱者スポーツ大会(愛称ゆうあいピック)が開催され、それ以後2000年まで8回継続開催されています。 |
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我が国の障害者スポーツの現況 |
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日本の障害者スポーツは第1の創生期(1960年全国大会の開催)から第2の変革期(1998年長野パラリンピック以降)を経て、今日第3の発展・充実期を迎えようとしています。2011年に公益財団法人化された日本障害者スポーツ協会(含日本パラリンピック委員会)や各競技別団体、地方スポーツ協会、指導者協議会が中心となって、障害者スポーツの大衆化と高度化に向けた様々な活動を今まで展開してきました。地方においては、障害者が安全に安心して利用できる優先施設としての障害者スポーツセンターが20か所以上設置されていますし、また、ジャパンパラリンピック大会や日本選手権のような競技性の高い大会の開催や様々な障害別大会、イベントなど地方を含め盛んに行なわれるようになってきました。しかし現在、少子・高齢化が急テンポで進行する中、障害のある子どもたちのケアや重度・重複障害、高齢障害者への対応、対策などスポーツ分野において極めて不充分な状況があると言わなければなりません。また、その一方で、競技スポーツ分野においてもオリンピックとパラリンピックの扱い方には歴然とした格差が存在し、今後改善が強く指摘されているところです。 |
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障害者スポーツの目的と課題 |
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戦傷者のリハビリからパラリンピックへ |
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イギリスはストークマンデビル病院脊髄損傷科の初代科長に就任した整形外科医F・グッドマン博士は第2次世界大戦激化の下、急増する傷病者の医学的治療と早期の社会復帰を目指して手術より積極的なスポーツの導入を進めました。その成果を発表する院内のスポーツフェスティバル(車イス使用者16名によるアーチェリー大会)が評判を呼んで徐々にヨーロッパ各地に拡がりを見せ、1952年以降は国際ストークマンデビル競技大会へと発展しました。戦後オリンピックの再興・復活を強く意識した博士は第9回大会(23ヶ国400名が参加。後に第1回パラリンピック大会とされます)をオリンピック開催地イタリアのローマで開催することに成功します(第1回冬季パラリンピックは1976年スウェーデンで開催)。当初この大会の参加者は一部の肢体不自由者(車イス使用者)に限られていましたが、第5回大会(1976年)から切断者と視覚障害者、次に脳性マヒ者(1980年)、知的障害者(1996年)と順次参加者の拡大が図られ、発展してゆきました。パラリンピックの呼称は1988年ソウル大会からParallel(並行した、同等の)のパラを意味づけるようになりましたが、それまでは出場者であったParaplegia(対-麻痺者)のパラとオリンピックの合成語が由来とされています。 |
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世界最高峰の「もう一つのオリンピック」を目指して |
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1989年国際パラリンピック委員会(IPC)はより多くの障害者にスポーツの機会均等と完全参加、卓越した障害者の技と力を競う場の提供を目的に設立されました。特に開発の遅れている国や地域のスポーツ振興及び重度者や知的障害者、女性のスポーツ参加の拡大等にも力を注ぎました。その一方で従来の「参加型」とも言えるパラリンピックを改め、個人競技には標準記録や国際ランキングの導入、団体競技には予選通過を義務づけるなど競技性重視の傾向を強め、更にオリンピックと同等の価値を有する高度で成熟した真の競技大会にするために国際オリンピック委員会(IOC)との協議を重ね、連携を模索してきました。その結果、2000年以降、IPCは「オリンピック開催都市は引き続きパラリンピックを開催しなければならない」、「組織委員会はパラリンピックも担当する」、「パラリンピック開催に伴う財政的援助を義務づける」などIOCによる詳細な支援を取りつけ、パラリンピックが「もう1つのオリンピック」と認識されるよう基盤整備に務めてきたのです。 |
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障害者スポーツのこれからの課題 |
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全ての障害者がリハビリスポーツや楽しむスポーツ、競技としてのスポーツを自由にいつでも・どこでも・いつまでも生活の中に取り入れられるようになることが大切です。そのためには、まず障害者の基本的な生活基盤と、その条件を支える医療や福祉、就労や教育などの充実・改善が必要になります。その中で余暇活動及び文化活動としてのスポーツ享受のためのハード・ソフト両面の環境整備が行なわれてゆくことが望まれます。幸いスポーツ基本法も施行され、従来までの厚生労働省管轄の枠を越え文部科学省との連携も強めながら一体的支援体制が構築されようとしています。21世紀を迎えた今日、スポーツを通じたノーマライゼーション(共生)社会の実現に向け、より一層の取り組みが期待されているところです。以下にその課題を挙げます。 |
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- 身近な地域で誰もが親しめる施設の整備やバリアフリー化の促進
- 障害者のスポーツ指導ができる指導員の養成&研修と配置の義務化
- 障害者向け用器具の設置、新ポーツやプログラムの開発
- 次世代アスリートの発掘&育成のための支援システムの構築と経済的支援
- スポーツ医&科学研究の障害者スポーツへの援用
- マスコミによる情報の拡大&拡充、民間企業の就労&財政的支援
- 重度&高齢障害者等への啓発と医療&福祉施策の充実
- 学校教育における福祉教育、障害者スポーツ理解の推進
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【4】障害者スポーツの種類 |
本節では、最後に障害者スポーツの種類と形態等を取り上げ解説しました。
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車イスフェンシング〜パラリンピック第1回目からの正式の伝統と歴史のある種目〜 |
パラリンピックの種目である車イスフェンシングはご存知でしょうか?
車イスフェンシングとは、車イスをピストと呼ばれる床に選手の腕の長さに応じて固定し、上半身のみを使って競技するパラリンピックの正式種目です。車イスフェンシングは実は1960年の第1回大会からパラリンピックの正式種目になっている歴史ある種目なのです。フェンシング自体が中々日本では普及していないため、認知はもちろん競技人口ともに多くはありませんが、発祥の地とされているヨーロッパでは多くの競技人口がいるスポーツの1つです。ルールは一般のフェンシング同様フルーレ(男女)、エペ(男女)、サーベル(男子のみ)の3種目で、競技規則をはじめ剣やマスク、ジャケットなど用具も共通しています。そして、出場選手の障害の程度によってA級、B級とクラス分けされます。競技に用いる武器であるフルーレの重さは500g以下、エペは770g以下、サーベルは500g以下と決まっています。500mlのペットボトルくらいの武器を素早く振り回し続けなければいけないので中々大変な競技です。車イスフェンシングは通常のフェンシングと違い、車イスが固定されているため間合いへの大きな出入りなどはできませんが、ボクシングさながらの上半身の動きに加え、剣さばき、腕力、スピードが高い次元で求められる激しいスポーツです。そんな激しいスポーツの車イスフェンシングで、最近アジア勢が非常に頑張っています。世界ランキングによると、B級というクラスで日本人選手はトップ100に3人もランクインしているのです。また、チーム別だと中国、香港がベスト10に入っていたりして大健闘しています。
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JWBF(日本車椅子バスケットボール連盟)とその歴史 |
車椅子バスケットボール競技の発展 |
バスケットボールは1891年にアメリカで生まれました。多くの障害者を生んだ第2次世界大戦後、米英両国で車イススポーツが生まれましたが、バスケットボール発祥の地アメリカでは車イスバスケットボールが障害者自らの手で情熱を傾ける対象として急速に普及発展し、1949年には全米車イスバスケットボール協会が設立されました。その一方、英国ではストークマンデビル病院のグットマン博士により脊髄損傷者の治療法の一つとして車イスポロやネットボール(バスケットボールの元となったスポーツ)が導入されました。この2つの流れは1950年代後半にひとつとなり、車イスバスケットボールは競技スポーツとして世界中で盛んになってゆきました。そして、車イスも当初は日常使用のものが用いられていましたが、競技用のものが徐々に工夫され、それにより現在はハイレベルな競技が行なわれるようになりました。
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日本での車イスバスケットボールの普及 |
日本での車イスバスケットボールの歴史は、1960年に厚生省の派遣でストークマンデビル病院国立脊髄損傷センターに於いてスポーツ・リハビリテーションを学んだ国立別府病院の中村裕博士によって大分県の国立別府病院で紹介されたのが最初です。そして、その翌年の1961年、同博士の尽力で開催された第1回大分県身体障害者体育大会で車イスバスケットボールのデモンストレーションが行なわれ、また、1963年は第18回国民体育大会(山口県)後の身体障害者体育大会・山口大会でもデモンストレーション試合が行なわれました。なお、車イスバスケットボールの全国への普及は、1964年に開催された第2回パラリンピック東京大会が契機となり、同競技に参加した選手や関係者によって精力的になされたのです。
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日本車椅子バスケットボール連盟の結成 |
東京パラリンピックが開催された3年後の昭和42年(1967年)に東京で我が国初めてのクラブチーム、東京スポーツ愛好クラブが誕生しました。その後、千葉、長野、別府、静岡などの身体障害者施設に次々とクラブが生まれ、また、そこの卒業生が集まってクラブチームを作るなどして年々盛んになってゆきました。これらは相互に交流を行ない、1970年11月29日、東京の駒沢オリンピック公園体育館で全国から福祉企業センター・労災リハビリテーション長野作業所・甲州クラブ・東京スポーツ愛好クラブ・労災リハビリテーション千葉作業所・国立身体障害者センター・ムサシノ電子工業の7チームが集まって、車椅子バスケットボール競技大会実行委員会の主催で我が国初めての第1回車椅子バスケットボール競技大会が開催されました。そしてその翌年、大会の名称を全国車椅子バスケットボール競技大会として日本全国から16チームが参加して開催されました。こうして、これらの大会開催の実績が認められ、東京パラリンピックの翌年から始まった全国身体障害者スポーツ大会でも昭和47年(1972年)の第8回全国身体障害者スポーツ大会(於鹿児島県)から車イスバスケットボールが公式種目として取り入れられます。このため、昭和47年及び48年は独自の大会の企画がなされなかったものの、全国的にクラブチームの数が増えてきており、都道府県及び政令指定都市単位でしか参加できず、8チームしか参加できない全国身体障害者スポーツ大会に対する不満が募ってゆきました。そして、障害者自身の手によるクラブ対抗の大会を開催しようとの意欲が高まり、2年間の空白の後、昭和49年に全国車椅子バスケットボール競技大会(1974年
)が開催される運びとなったのです。そして、この競技大会開催を機に車イスバスケットボールの組織化が真剣に論議されるようになり、東京パラリンピック以来、日本での車イスバスケットボール競技の普及に尽力してきた人々によって、昭和50年(1975年)5月2日に日本車椅子バスケットボール連盟(Japan
Wheelchair Basketball Federation)が結成され、同時に全国を10地区とする地方連盟が組織されたのです。
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その後の活動 |
この組織化以後、日本車椅子バスケットボール連盟(JWBF)は、日本における車椅子バスケットボールの統合体として全国的に車椅子バスケットボール技術の向上と普及を測り、年1回の選手権大会を開催しています。なお、この大会の名称については、昭和45年の第1回車椅子バスケットボール競技大会から通算して昭和51年(1976年)の第5回から名称を日本車椅子バスケットボール選手権大会としました。さらに昭和54年(1979年)の第8回からは内閣総理大臣杯を冠し、その歴史を重ねています。また、第10回大会に皇太子殿下同妃殿下(現在の天皇皇后両陛下)、第20回に天皇皇后両陛下、第25回大会に現在の皇太子殿下同妃殿下、そして、天皇陛下御即位10年記念大会として開催した第28回には天皇皇后両陛下の臨席を賜っています。なお、平成11年度の登録チームは89チーム(1088名)で、女子チームも少数ながら積極的に活動しており、1990年から全日本車椅子女子バスケットボール選手権大会が、阪神淡路大震災により1995年から1997年は他県での開催となったものの毎年神戸市で開催されています。
さらに、四肢の麻痺のある人にも車イスバスケットボールをと、1980年頃にルールを工夫した新しい競技が考案されました。より重度の障害を持つ人のためにバスケットを低い位置にも配した新しいスポーツ(バスケットが2組ある)車イスツインバスケットボールです。現在、日本車椅子ツインバスケットボール連盟として独立し、正式登録チームが30チーム、未登録を含めると全国で50チーム以上が活動しています。現在は世界へ向けて同競技の普及に力を入れ始めており、1998年10月にはシドニーで行われたIWBFの総会で車椅子バスケットボールのファミリーとして認められ、その規約に盛り込まれました。なお、2013年8月20日付けにて、今までの任意団体から「一般社団法人 日本車椅子バスケットボール連盟」に移行しています。
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国際的活動 |
連盟結成後は国際試合に積極的に参加するようになり、1975年大分県で第1回フェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)が開催され、車イスバスケットボール競技では日本が優勝、準優勝を手にしました。海外への選手団派遣は1976年カナダのトロントで開催された身体障害者オリンピアード(パラリンピック)が最初で、以後殆ど毎年国際大会に参加しています。そんな中、1977年の第2回フェスピック大会で日本が優勝、1980年オランダのアーヘンでの身体障害者オリンピアード(第6回パラリンピック)では決勝リーグに進出して8位となり、1983年第32回国際ストークマンデビル大会では初めてAリーグ入り、3位入賞を果たしましたが、それ以後世界の壁は厚く、欧米の強豪に阻まれ、1996年パラリンピックアトランタ大会は11ケ国中8位、1998年シドニーゴールドカップ(世界車椅子バスケットボール選手権大会)では12ケ国中9位、2000年シドニーパラリンピックでは同じく12ケ国中9位、日本で初めて開催された2002年北九州ゴールドカップでも12ケ国中8位、2004年のアテネパラリンピックでも12ケ国中8位でした。一方、女子は1984年イギリスのストークマンデビルで開催された第7回パラリンピックへ初出場で3位入賞しましたが、以後はフェスピック圏内では上位を占めるものの、世界大会では上位入賞は難しく、1996年パラリンピックアトランタ大会では8ケ国中5位、1998年シドニーゴールドカップでは8ケ国中4位でしたが、2000年に行なわれたシドニーパラリンピックにおいて見事3位に入り、銅メダルを獲得しました。その後は2002年の北九州ゴールドカップでは8ケ国中4位、2004年のアテネパラリンピックでは8ケ国中5位でした。
国際車椅子バスケットボール連盟(IWBF)が1988年に設立され、1991年その普及委員会委員に当時の日本車椅子バスケットボール連盟会長・浜本勝行がアジア地域代表に指名され、同地区の振興を託されました。
アジア域内は22カ国中、韓国や中国など数か国が車イスバスケットボールを行なっているだけで、それらの国々でも限られた人々が携わっているに過ぎませんでした。そんな中、1995年に振興目的でタイ、カンボジアへ車イスバスケットボールの実技指導に遠征、タイへは同年再度実技指導を実施しています。そして、同年9月、日本で初のIWBF公認国際大会となったパラリンピックアトランタ大会アジア・オセアニア地区予選会が山形県で開催され、また、同地においてIWBFアジアゾーンが正式に設立されました。これ以後、草の根の普及活動により、1997年8月にはタイで東南アジアの6ケ国が参加するクリニックと大会が行なわれ、12月には台湾で第1回アジア・カップ兼ゴールドカップ予選会が開催されました。その後、IWBFは世界の車椅子バスケットボールの普及をより効率よくするために世界を4つのゾーンに再編し、アジアゾーンはオセアニアゾーンと統合され、1999年6月25日にアジアオセアニアゾーンが新たに設立され、その委員長として浜本勝行氏が再度その要職を預かることになり、2004年以降は渡邊祐一氏がその重役を担っています。なお、日本車椅子バスケットボール連盟は、諸外国のゲーム運びや技術を学び、親善を図る目的で、外国チームの日本招待活動も行なっています。このように日本車椅子バスケットボール連盟は結成以来、国内の車椅子バスケットボール普及に力を注いできましたが、今後は国内の底辺の拡大と世界を視野に置いた全体のレベルアップ、経済的基盤の確保、アジアオセアニアでの普及など課題が山積しています。
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障害者スポーツの種類 |
パラリンピックで行なわれているものだけが視覚障害者スポーツではありません。他にも多くのスポーツが行なわれています。その中でもグランドソフトボール(視覚障害者の野球型ゲーム、以前の盲人野球)、フロアバレーボール(視覚障害者のバレーボール)、サウンドテーブルテニス(視覚障害者の卓球、以前の盲人卓球)は有名でしょう。
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パラリンピックのスポーツ |
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- ゴールボール:
国際的に最も盛んに行なわれている視覚障害者のボールゲーム。前後半10分の合計20分で競技されます。コートは9m×18m(6人制バレーボールと同じ大きさ)、一番後ろのラインがゴールになっています。1チーム3名(アイシェード=目隠し着用)で音源入りのボールを転がし合ってゴールを狙います。国際的には1946年より行なわれています。国内では1994年に全国大会が実施され、現在は西日本・東日本大会も実施されています。
- タンデム:
自転車2人乗り自転車競技。前にパイロット(晴眼者)、後ろにストーカー(視覚障害者)が乗って競技されます。トラックレースとロードレースがあります。国内では1990年から組織的な活動が始まり、現在は全日本大会が実施されています。
- 視覚障害者サッカー:
主にフットサル(5人制サッカー)のルールで実施されます。B1(全盲)クラスの部では20m×40mのピッチを使い、前後半各25分で競技されます。4名のフィールドプレイヤーはアイマスクを着用、音源入りボールを使用して競技します。キーパーは弱視又は晴眼者が行なうことができ、ゴール後ろのコーチがプレイヤーへゴール位置などを指示することができます。現在のIBSAルールの原型は1980年頃にスペインで考案され、国内では2002年より全国大会が開催されています。
- ブラインドセーリング:
視覚障害者2名と晴眼者2名の4名でヨットを操作します。クラスは視力によりB1、B2、B3に分かれて競技されます。パラリンピックでは視覚障害者と晴眼者でチームを組むセーリング競技ではなく、他の障害者と一緒に視覚障害者がチームを組む形式(クルーボート)が行なわれ、日本からも参加しています。ブラインドセーリングは世界的には1980年後半にニュージーランドで始まったとされ、日本では1998年から日本選手権が実施されています。
- 柔道:
柔道はパラリンピックでも行なわれています。相手を手で確認してから始める方法以外は一般の柔道と同じです。視力によるクラス分けはなく、体重別で競技されます。最近女子の部も開催されるようになりました。
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その他の障害者スポーツ |
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- 視覚ハンディキャップテニス:
コートはバトミントンのものをボールは音源入りのスポンジボール、ラケットは一般のテニスラケットより短いものを使い、高さ約80cmのネット上をラリーします。日本で考案された競技で、1989年弱視者を対象としたショートテニスの大会が行なわれたのが競技としての始まりです。全盲者を対象とした大会は1990年より実施されており、現在は西日本・東日本の大会に加え、地域独自の大会も行なわれています。
- フライングディスク:
フライングディスクアキュラシー(正確に投げることを競う)とディスタンス(距離を競う)とがあり、陸上や水泳のような障害区分別で競技されないのが特徴です。アメリカでは古くから障害者に親しまれている競技ですが、国内では1997年に第1回の全国大会が実施されました。全国障害者スポーツ大会の種目にもなっています。
- ビームライフル:
視覚障害者ゴルフキャディーがボールの位置やホールまでの距離を指示、2人1組となって行なう競技です。バンカーに入ったボールを打つ際にクラブが地面に接触してもよいことを除けば一般のルールとほぼ同じです。アメリカでは1930年代より組織的な活動が行なわれていますが、日本では比較的新しいスポーツです。世界のトップゴルファーは70台、80台でコースを回ります。
- ウインタースポーツ:
長野のパラリンピック以降盛んになりつつある競技で、大回転、バイアスロン(クロスカントリースキーと射撃=エアライフルを同時に行なう競技)、クロスカントリー(歩くスキー)などが行なわれています。
- その他のスポーツ:
その他にもスキューバダイビングやバスケットボール、乗馬など多くのスポーツが行なわれています。
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障害のある人々のスポーツ事情 |
組織状況 |
障害のある人々の国際スポーツ組織は、設立順にあげると次のようになります。
まず第1次大戦直後の1924年に耳の不自由な人々が設立した国際ろう者スポーツ委員会(CISS)で、それ以外は全て第2次大戦以後の設立です。まずL・グットマン博士が設立した国際ストークマンデビル競技連盟(ISMGF、現ISMWSF:1960年設立、対象・車イス)、世界歴戦者連盟が中心になって設立した国際身体傷害者スポーツ機構(ISOD:1964年設立、対象・切断、四肢体幹機能障害他)、米国のケネディ財団の莫大な財政的支援の下に設立されたスペシャルオリンピック・インターナショナル(SOI:1968年設立、対象・知的障害)、際脳性まひ者スポーツ・レクリエーション協会(CP-ISRA:1978年設立、対象・脳性まひ)、国際視覚障害者スポーツ協会(IBSA:1980年設立、対象・視覚障害)、国際知的障害者スポーツ協会(INAS-FMH:1986年設立、対象・知的障害)の6組織があります。上記各組織はそれぞれ独自の大会である障害別・種目別世界選手権大会、世界ろう者競技大会(夏季・冬季)、スペシャルオリンピック(夏季・冬季)等を開催すると共に、CISS・SOIを除く5組織はパラリンピックの主催団体にもなっています。なお、1982年にはパラリンピックの開催を調整する国際調整委員会(ICC)が設立され、さらにそれが1989年には国際パラリンピック組織委員会(IPC)として再組織され、パラリンピックの開催だけではなく、各種世界選手権大会等の開催も行なっています。なお、地域別の組織としては我が国の中村裕博士の提唱によって1974年に設立された極東・南太平洋身体障害者競技連盟(FESPIC)があり、第1回極東・南太平洋障害者スポーツ大会は日本の大分で開催され、現在までに8回開催されています。
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実施種目 |
多様な障害を持つ人々のために様々なスポーツが修正を加えてプレイされる一方、独自のスポーツも幾つか存在します。各スポーツムーブメントの内部ではレベルによって実践するスポーツが異なっており、たとえばパラリンピック運動のスポーツの中にはパラリンピックの種目として採用されていないものがあるといった具合です。また、正式なスポーツムーブメントの外部でも多くのスポーツが障害者によって競技されています。ここでは、上で紹介した各国際組織が開催している総合スポーツ大会の最近の実施競技種目を下記に挙げます。
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世界ろう者競技大会 |
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- 夏季大会:
陸上、水泳、バドミントン、卓球、テニス、ボウリング、射撃、オリエンテーリング、レスリング、自転車、バレーボール、バスケットボール、サッカー(男)、ハンドボール(女)、水球(男)
冬季大会:
アルペンスキー、クロスカントリースキー(ノルディック)、アイスホッケー、スノーボード
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パラリンピック |
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- 夏季大会:
陸上、水泳、卓球、アーチェリー、フェンシング、パワーリフティング、車いすバスケットボール、バスケットボール、バレーボール、自転車、ゴールボール、ボッチャ、柔道、射撃、サッカー、車いすテニス、馬術、セーリング(ヨット)、車イスラグビー
冬季大会:
アルペンンスキー、クロスカントリースキー、バイアスロン、アイススレッジレース、アイススレッジホッケー
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スペシャルオリンピック国際大会 |
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- 夏季大会:
陸上、水泳、卓球、テニス、バドミントン、バレーボール、バスケットボール、ボッチャ、ボウリング、サッカー、ゴルフ、フライングディスク、ソフトボール、ヨット、乗馬、パワーリフティング、ローラースケート、サイクリング
冬季大会:
アルペンスキー、クロスカントリースキー、スノーボート、スノーシューイング、スピードスケート、フィギアースケート、フロアホッケー
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国際ストークマンデビル車椅子競技大会(ISMWSF)兼ISOD世界選手権大会 |
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- 陸上、水泳、卓球、アーチェリー、パワーリフティング、キュースポーツ、クワドラグビー、ローンボール
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極東・南太平洋障害者スポーツ大会(FESPIC) |
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- 陸上、水泳、卓球、アイチェリー、フェンシング、ボッチャ、パワーリフティング、バドミントン、射撃、柔道、車いすバスケットボール、車いすテニス、シッティングバレーボール、ゴールボール
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その他 |
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- その他、最近我が国が参加した世界選手権大会には、以下のものがあります。
IPC世界陸上競技選手権大会、IPC世界水泳選手権大会、IPC世界卓球選手権大会、IPC世界射撃選手権大会、IPC世界車椅子ダンス選手権大会、IPC世界自転車選手権大会、IPC世界アーチェリー選手権大会、INAS-FID世界水泳選手権大会、INAS-FIDクロスカントリースキー選手権大会、INAS-FIDバスケットボール選手権大会、INAS-FIDサッカー世界選手権大会、世界ボッチャ選手権大会、世界シッティングバレーボール選手権大会、世界セーリング選手権大会、世界クロスカントリースキー選手権大会、障害者アルペンスキー世界選手権大会、ボッチャーワールドカップ、車イスフェンシング世界選手権大会、オープンヨーロッパ選手権障害者自転車競技大会
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参考:障害者スポーツに関する参考サイト |
◆参考図書 |
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高橋明・著 |
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『障害者とスポーツ』 |
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岩波新書・新赤版896、岩波書店・2004年06月刊、735円 |
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マラソン中継で、車椅子を腕でこぐランナーの力強さに驚いたことはないだろうか。もともとリハビリテーションとして始まった障害者のスポーツは、いまやパラリンピックに代表される競技スポーツから、健康維持・生きがいのための生涯スポーツまで多彩な側面をもっている。その魅力から社会的課題まで、指導者歴三〇年の著者が紹介する。 |
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藤田紀昭・著 |
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『障害者(アダプテッド)スポーツの世界―アダプテッド・スポーツとは何か―』 |
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角川学芸出版・2008年04月刊、2,520円 |
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アダプテッド・スポーツとは障害者、子ども、女性などに開かれたスポーツです。障害者スポーツの現状、選手をとりまく障壁、関連用語、歴史、大会、留意点、指導者資格の取得、各競技のクラス分け、用器具などを詳しく説明。パラリンピック関連の競技だけでなく、42種のアダプテッド・スポーツを紹介!障害者スポーツ選手、その家族と指導者、サポーターの生の声も収録。 |
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